2012年8月21日

【ブログ版】 消費税25%でも国民理解は得られる 1/4 Introduction

■税は簡素に、複雑な税構造は行政の介入を招きやすい

税とは本来簡素でなくてはならない。複雑になればなるほど国民理解が得られにくい。個人的には全ての税を「消費税への一本化と、低所得者への還付」で完結すると考えているが、その実現には、それこそ日本の全既得権と戦う覚悟が必要である。国民がコントロールすることのできない権益、目的税、特別会計枠などは非常に厄介な存在である。

日本の通信・水道光熱費は他国に比べて非常に高い。国民生活の基盤となるインフラ使用料が高額なことは大きな問題である。長年、国と蜜月な関係にあるインフラ業界は、新興国にも勝る排他的な規制で守られている。利益率の高いビジネスモデルを維持するため、消費者に高い負担を求めている。そして同時に、これらの企業は膨大な借金も抱えている。「寡占的事業」が、膨大な社債発行を許し、慢性的な浪費体質に陥っている。使用料を下げようにも、今からでは手のつけようのない状態に陥っている。日本は低所得層への課税が緩いと言われるが、高額なインフラ使用料を前に、国は高い税率を低所得者に課すことができないのが実情である。

■業界トップ企業、表向きは社会貢献、裏では強力な政治介入

国はなおも企業業績を第一に考えている。「国が企業を育て、企業が国民生活を豊かにする」と、高度成長期の構図から抜け出せないでいる。この先も莫大な予算を使い、企業への優遇策を整備し続け、業績向上、税収増を望むのだろうか。しかし思惑どおりに事が運んだとしたとしても、それが実るまでにどれだけの年月を要するだろうか。仮に企業業績が上がったとして、それが社員、社会に還元されるのはさらに何年先になるだろうか。そもそも、日本人雇用を減らす一方で外国人雇用を増やす企業が急増する中、業績向上による還元が、どれだけ日本国内に循環するだろうか。そして企業は生産拠点の国外移転を止めるだろうか。

「国家一丸となって他国に打ち勝とう」を推進する時代はとうの昔に過ぎ去っている。本来であれば、日本も各地方政府が地域主権を持つ時代にあるはずである。住民が目の届く地域政府が、よく知る地域の特色を活かした政策、経済活動を個々に推進する時代にある。東京に本社を持った企業だけが世界で認められているわけではない。地方にも世界で活躍する優秀な企業、事業主が数多く存在する。地方へ権限委譲し、技術・金融立国であるスイスのような国(または州)を複数持てばいい。最終的に消費税は、地方自らが税率を考え、消費者を誘致して得ることのできる「地方の財源」でなくてはならない。

しかし霞ヶ関が持つ権限の委譲、地方主権の確立を待っていては、現在政府が拙速に押し進める消費増税に間に合わない。さらに、これらの改革を実行するに必要な時間と体力が、我々には残されているだろうか。ギリシャのように国民に知らされていない部分で、国は待ったなしの極限状態にまで来ている可能性もある。毎年、借金で借金を返す現在の国の財務状況も、ついには増税で借金を返さなくてはならないところまで来ているのではないか。

そこで当面の時間稼ぎ、経済破綻を避けるため議論されるのが消費税率の引上げ議論である。実際にどこまで急を要するのか、そもそも本当に引上げが必要なのかと言いたくなるが、これまでがそうであったように、国は引き上げるときは何が何でも引き上げる。ここではそれをどう阻止するかではなく、結局引き上げられるのなら、国民は何を引換えに勝ち取るべきかを考えたい。

■とにかく避けるべきは国民泣き寝入りの増税

一番避けなくてならないのは、国民が政府、行政、メディアのいいなりになり、なし崩しで増税を受け入れる羽目になること。年金等の生涯保障が明確にならないまま、増税だけが行われるようなことが決してあってはならない。これは国民に得るものがないだけでなく、経済の悪化、富の固定化が進行し、落ちるところまで落ちての国家破綻となりなねない。このとき高級官僚、インフラ企業役員を含む富裕層の資産は海外にあり、彼らは痛みを被るどころか、日本の没落によって相対的な資産価値を膨らませることになる。そして日本が落ちるところまで落ちて再び買い占めるのである。彼らは後の日本復活によって膨大な利益を得ることとなり、国への影響力、支配力を新たに強化してゆくのである。

この支配層ともいえる現在の既得権者が、ほぼリスクフリーで(法整備の遅れを突いて、いや、法整備を遅らせて)、富や機会の平等を国民から奪う国家構造であってはならない。今回の増税で泣き寝入りは禁物である。来る時に備える意味においても、国民は増税と引き換えに必ずや最低限の安心を勝ち取らなくてならない。