2012年11月6日

「和の国」が持つ全周辺国との不仲

■日本の戦後史は「神聖」?

中・韓国への対抗心をのぞかせる日本のメディア。政府を肩代り、国民の愛国心を煽る役を買って出ている。ここまで来ると新聞と言うより、タブロイド紙や個人のブログといった印象。極めて右寄りな投稿も多い。


今回の日中・日韓問題では、金型を当てたような全く同じ論調しかメディアに登場しない。「反日感情は不当、抱くほうが悪」一色である。「中韓政府が反日を利用している」とメディアはしきりに伝えるも、そもそも何故それ事態が可能なのか、反日感情の発生源、その経緯を掘り下げ論ずることはない


日本はこれだけの経済大国、高就学、本来自由が保障されている国家でありながら、歴史認識とその検証を行うことをタブー視し、何か神聖なもののように扱ってきた。それを疑問視する論調は決して表には出てこない不自然を「自然」と扱ってきた。客観的な立場で見ることが可能な今世紀になっても、戦前・戦後を再検証することは「国家への冒涜」という意識がある。

これは戦前からの政府・大企業・メディア支配が今に残っていることの現れでもあり、米国保護による最大の利点でもある。米国は自国利益を優先し、日本は米国の経済的、軍事的「保護管轄区」といった姿勢を崩していない。戦後、自らの手腕を披露する形で拙速に行った日本の民主化とその内容に、正当性を与え続けている。


■日独教育水準の差


これにより「謝罪・賠償で全て解決済である」と考えるようになってしまった日本と、それ以上に被害国に対する心のケア、トラウマケアが最重要であると考えるドイツには大きな歴史認識の差がある。それは両国の隣国間との発展的な未来構築にも大きな違いを与えている


「我々は過去の過ちを悔んでいる、でも今はその反省から完全に生れ変わったのだ」ということを発し続ける努力を怠れば、これまでの過去の償いが無駄になる。さらにこれを忘れた時点で「結局、我々は変われなかった」と発っしてしまうことになる。先人とは言え、彼らが犯した過ちを学校で教えて悪いはずがない。「無知こそ悪」とも言う。数千年続いたアジア史を一度の過ちで「無」にすべきでない。


「民主教育」が教育の基礎となっている欧米では、相手の心情を察する思考力、相手の立場で考える道徳観の習得を非常に重要視している。犯罪被害にあった人々に対する「心のケア」の重要性についても、このような教育方針、道徳観を持つ社会の中で生まれている。これは日本で「トラウマ」という言葉が紹介される数十年も前に始まっている。


民主教育では、自らの利己的な行動が、他人の損失となって表面化することのアンフェアさを教えている。さらに自らの行いによって他人を傷つけること、その事実を軽視し続けることの「罪」を教えている。これらは日米欧の教育水準の差が鮮明に映る一面でもある。


20世紀中東不和、21世紀の日・中・韓・北」不和は米国覇権の温床


世界で言われている米国の覇権主義は、戦後日本に始まる米軍駐留を今に残している。しかしこの米軍駐留当初の、そして今も残る重要な責務は「監視と抑制」である。もちろんこれは中国や北朝鮮に対するものではない。それは中国の核保有、北朝鮮のテポドン日本上空横断に対する米国の対応を見ることで理解できる。米国からは言葉による懸念表明以上のものはない。沖縄や横田基地等、日本の陸海空に広がる米国支配を見ても、世界一多くの国際監視カメラが設置されている日本の核利用、原発を見ても、その主な監視対象が「対中・対北朝鮮」などでないことは明らかである。


日本の支配層が醸し出す日中韓北の不和が、アジア圏における米国覇権の温床になっている。いわゆる「隣国脅威」という理由がある限り、日本に対する米国の影響力は緩むことはない。すなわち日本への軍事的、領域的占領が解かれることはない。これらを踏まえ、「脱亜入欧」から150年が経過する今、日本はそれを振返り総括すべきである。これは今後とも、日本がアジアにおける地位を維持するための重要なプロセスでもある。


欧米にとって戦後日本はほぼ唯一のアジアであった。しかし今は違う。韓国、台湾、中国等の復活、タイ、マレーシア、インドネシア人気など、世界は再びアジアで溢れ始めている。欧米人は自分たちをフォローするだけの国にいずれ興味を示さなくなる。アイデンティティを尊重し合える関係を持たずして、持続可能な異文化間関係は存在しない。一皮剥けば日米関係にもそれが存在しないことに気付く。


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