2008年12月21日

日本経済 「再ライズ」なるか..

150年前、横浜で始まった日本の新時代。それまで江戸幕府よって統制されていた情報メディアの解禁、欧米先進技術の受入れを通じ、日本の民主時代幕開けとなった。徳川将軍率いる「士農工商」の身分制度時代、文化の「入替」が行われた。欧米的民主化へと向けた「パラダイムシフト」だった。

現在の日本の政治・社会・経済問題を考える時、果たしてどこまで遡ればその根源が見てくるのか。今となってはこれまでも度々行われてきた「戦後回帰」ではこと足りず、「明治維新回帰」、すなわち武家社会から国民中心の社会へ至る変革時代、さらには日本史上「空白」となっている軍国主義時代から今日に続く、国家構造の歪みについて大いに考察する必要がある。これをもって現代日本の国家構造を刷新できたのなら、今後、後戻りすることないグローバル社会の中で、時代を勝ち抜いてゆける強固な国家が創造できるのではないだろうか。

景気回復過程にあった過去数年間、「日本再ライズなるか」と囁かれたのもつかの間、ディカップリング論もむなしく、米国経済の一部であるかのごとく地に落ちようとしている日本。私が恐れをなすのは経済の崩壊よりも、日本文化と歴史、日本国民としての誇りの崩落である。

米国オバマ政権が打ち出す新エネルギー・環境政策に望みをつなぐ以外、この先長期間、日本経済復活のシナリオがなさそうな気がしてならない。仮にこのチャンスが訪れることがあれば、それがラストチャンスかも知れないという危機感を持って、是非成功に導いて欲しいものである。そして日本国民には再度清く正しい社会秩序と国民性を取り戻して頂きたいと願うのみである。 

2008年12月17日

経済ワールドシリーズ、プレイヤーは復活を遂げるアメリカと眠りから覚める中国

■「若い」EUと中国

「ブッシュ政権の終りは『パックスアメリカーナの終焉』、同国の軍事力も限界に近い」

上はある上場企業CEOの言葉。オバマ政権の誕生と今回の経済危機は、確かに「パックスアメリカーナの終焉」をにおわせる。しかし同時に「逆の未来」を予感させる部分もある。その最たるところは、未だEUも中国も、アメリカに代わる存在としては準備不足であると言うこと。

もちろん文化面ではどちらも優秀であるが、EUはまだその制度が始まったばかりで、世界のリーダーとしては未熟である。中国は政府、社会が深い歴史観、世界観を持ち、その点においては世界をリードし得る資質を備えているかもしれないが、なによりも民主性が欠けている。

米国の軍事に関しては、日本の省庁の政策に限界来ているのと似た行詰り感がある。「国家、国民を守ることが最優先」とは言い難く、役所としての権益や関連産業の既得権維持が目的といった色彩が強い。結果、国民の支持を失い、軍権拡大に反対の声が広がっている。

■「宗教国」としてのアメリカ

日本では全く言われないことであるが、私の周囲の特に富や名声もない平均的な米国庶民は、みな今の米軍行政に批判的である。ブッシュ二世政権誕生当時、友人らはみな口を揃え、「米国は危険な方向へと進み始めることになってしまった」と、無言なまでに落胆していたことを思い出す。

そう考える国民が多数であるにもかかわらず、ブッシュ共和党政権が誕生した背景には宗教的な要素がある。彼らは共和党の戦争と軍事を支持したのではなく、「キリスト教国」であることを支持したのである。日本の与党(公明党)支持者同様、政治の実力以前に、まずは自己の宗教団体所属政党を支持する。よって憲法上の宗教分離が言われながらも、イスラム圏諸国の台頭などで、それに対抗する「宗教力」が働いた結果となっている。

ブッシュ氏の全盛期、キリスト教に基づいた教科書の導入が複数の都市で真剣に議論されていた。それによると「地球は平面であり、太陽と月が地球を周回し、アダムとイヴが人類の先祖で、ダーウィンの進化論は成立しない」などとしている。さらに3人に1人の米国民は「天使の存在(あの羽根の生えた空飛ぶ子供)」を本当に信じているとう調査結果も過去にあった。

■アメリカン・スピリットが成長を支える

多くの民主党員もキリスト教徒ではあるが、少なくとも科学を信じ、頭の中では「政教分離」は必要であると考えている。今回の金融経済危機は幸いにも、過激なまでの米国の宗教色を薄め、中世のような宗教社会へ逆戻りするのを一旦は阻止したのかもしれない。

米国の建国は、既存の宗教の縛りからの解放を求めた「理想郷創造」がその原点。義務教育の歴史の授業では、そうした解放と開拓の精神がアメリカンスピリッツとして教育される。最近の共和党政権が右に向き過ぎた側面は否めないが、それでもやはり一定の開拓精神を備えているはずである。

今後のオバマ氏政権下では、より原点に近い開拓精神によって、他国に先駆けた「復活」を遂げる。そのようなスピリットを持つ米国民が、人生の貴重な時間を無駄にしかねない国家のマイナス成長を長期間許すはずもない。よって早ければ2009年後半にも、米国経済の前進を目前にするのではないか。ただ、良し悪しは抜きに、「永遠の成長政策」を疑問視する声も多い。

■数千年続いた均衡を取り戻しつつあるアジア

昨今の中国復活はアジアに歴史的転換をもたらした。過去の大国衰退期、極東の「小国」であった日本が膨大な国費を投じて近代的軍備を獲得し、地域のパワーバランスを武力で「変更」した。後の暴発、復興後の経済崩壊、隣国の分裂、大国の共産化等で、アジア史に破滅の危機が迫った。しかしここへ来て中国、韓国の復活、日本の足踏み等で、日米欧によるアジア支配に歯止めがかかっている。世界におけるアジアは再び元の均衡を取り戻しつつある。

「パックスアジアーナ」を切望するわけではないが、中国を始めとするアジアの歴史と世界への貢献が、もっとクローズアップされてしかるべきだと思う。とりわけ、自国企業が中国との経済活動によって潤っている事実が日本では正しく理解されていない。バブル経済崩壊後の日本経済も、中国との経済活動によって底割れを回避した面が大きい。日米欧は、中国を始めとする資源国、低賃金国の環境破壊と引き換えに潤い、自国を「クリーン」に保っている事実も言われることはない。

日本の琉球問題より一世紀も前のチベット問題、日米欧政府は今もこれを戦略的に報道し続けている。中国は自国内の異なる文化、民族に対し、日本のような「統一政策」を取ってはいない。少数民族は歴史的に見ても自治体制にあり、その言語、文化の保全は政府によって保護されている。日米が中国との交易で最初の富を両国にもたらした自らの「生い立ち」も、捨てられた敵国の子を我が子のように育てた同国の国民性も、日米欧政府が語ることはない。

■資本主義と一党政治のコラボ

日本の民主性は60年余りでしかない。この若いメンバーの市場が、世界の投資対象となってバブルが発生し、それがはじけて今日に至る。欧米資本によって使い捨てにされた感も否めない。彼らは国内産業を保護する日本の政策に、強い圧力をかけて市場解放を促してきた。もっとも、それはより多くの自由を求めた日本国民の意向をうまく利用したものであって、決して「外圧」が一方的に影響力を行使したわけではない。

この脆弱な日本の民主性とは逆に、中国の一党体制は強力な外交力を備えている。業界、外国資本等によるロビー活動、根回しを困難にし、同政府にはある種の恐れと遠慮をもって接することを余儀なくしている。仮にこのような環境で日米欧関係が構築されていたのなら、日本の市場開放は外圧ではなく、政府によってより計画的に行われ、無防備なバブル発生等を巧みに回避していた可能性が高い。

一党体制の最大の強みは、世界にとってそれほど魅力的に映らない北朝鮮に見て取れる。同国政府は米国政府の政策に影響を及ぼすほどの「互角性」を有している。それは日韓には許されることのなかった核保有にもみられる。

もちろん中国の一党体制には、北朝鮮のそれとは比較にならないほど多くの「自由」が保障されている。しかしそれは先進民主国と比較にならないばかりか、国民の一定の自由と引き換えにある。中国人民には申し訳ないが、ここで民主化を急げば、日本を含む欧米資本にかき回され、結果的にアジアは「強く正しい中国」という未来像を失うことになるかもしれない。「欧米次第」の日韓だけでは、やはりアジアの未来は保てそうにない。

現在の中国共産党そのものを支持するかどうかは別に、今の世界は中国の体制に一定の理解を示している。仮に中国が1978年の改革開放とともに民主化されていたら、過去の時点で欧米資本の「食い物」にされていたに違いない。そうなればこの世にアジア復活はないまま、永遠の時が流れて行ったのではないか。

資本主義と一党政治のコラボレーションを試みる中国。我々はこの実験を見守るべきなのだと思う。それは行詰り感のある世界の欧米主導を緩和する意味においても重要なことかもしれない。

― 自己の他ブログサイトより転記 ―


2008年12月15日

アジアでのリーダーシップ ラストチャンスも逃してしまう日本

日本国政府のお金の使い方はまるで小学生レベルである。お金の使い方に責任を感じることがでない。国民から自動的に集まってくるお金は、「そこにあるから使いたい、使ってしまおう」といったレベルで、子供が誰かからもらったお金を、特に目的もなく使い切ってしまう様子を思い浮かべずにはいられない。

今でもよく耳にすることであるが、あのGHQですら、当時の省庁の権益を崩すことができなかったと言う。当時の省庁の権益、すなわち軍国主義時代の権益。この権益は組織を統括する軍が解体されたと同時に、各省庁へとそれぞれが引き継がれたことであると思うが、この既得権益こそが、今も国家を支配する構造である。

これは民主国としては極めてまれな構造で、民主国家としての基本構造が元々ないのが日本社会の特徴だ。これだけ国家間の競争の激しい時代、今となっては構造改革では不十分であり、必要なのは「新構造への転換」ではないだろうか。

今回の金融危機により、世界が大きく変貌するかも知れないというこの好機を、大変残念ながら、日本の政治家には掴むことができないと察する。週末の日中韓首脳会談でも、今であれば欧米の横やりを交わしながら、日本のリーダーシップで新たな枠組みを開拓できる絶好の機会であったと思うが、どうも「傷のなめ合い」で満足してしまった感が否めない。

今後日本に期待できることは1つ。オバマ政権が打ち出す政策に、少しでも多く、日本の産業が得意とする分野が盛り込まれていることを願うのみ。それが米国の傘の下にある現代日本の実態である。

2008年12月6日

構造的な歪みの是正 そして成熟経済へ..

数日前のニュースで、国土交通行政推進のための「国土交通アドバイザリー会合」が開かれたとあった。そのメンバーは自動車連盟、全国トラック協会、宮崎県知事など。このメンバーを見ただけで、会合の意図が見て取れる。

「国交省行政推進」といった健全なものではなく、「人口、交通量減少という逆風が吹き荒れる中、更なる道路建設推進のためには、どう国民に訴えればいいか」。言葉悪いが「国民をどう言いくるめるか」といった会合に映る。純粋に国交省行政推進のための会合であれば、同省の管轄である他の分野、例えば建築、観光、空港、海事など、他の分野からの専門家も加え、しかも分野別に無数にアドバイザリー会合を設置しなくてはならないはずである。

国民の多くが、戦後最悪かつ超長期景気低迷に苦しむ中、昨年まで過去最高益を更新し続けた企業がある。円安メリットを享受できる大手企業群だ。これこそが、二極分化社会が構造的に支えられている大本であると私は考えている。このような円安メリット企業を優遇する政策は、本来バブル期突入と同時に、方向転換しなくてはならなかった「発展途上国型」の政策である。戦後の生めや増やせやタイプの経済政策は、第3次産業も成熟期に入っている今の日本には、完全に時代錯誤である。

外国へ売る製品を作り続けることが国家にとって真に有益であると考えるのであれば、そこは「もの造り日本」、江戸時代のように、学問より職人を育てることを優先してもいい。しかし円安を好む経済政策は、言わば自国通貨「売り」を推奨し、円安メリット企業を育成することでもある。結果、日本経済の構造的な歪みを温存することになる。

戦後数十年で、日本は世界の先進経済圏から転落してしまった。その後20年が経過する今も、復活の目途すら立っていない。2流が3流にとなろうとしているのである。全先進諸国が戦略的に経済政策を推進する中、高度成長期をとうの昔に終えながらも、未だ大きな構造的な歪みと脆弱性を持つ日本。今世紀、このような国家が生き残ることができるであろうか。

2008年12月3日

世襲政治 失われる国民の夢と希望

日本の総理大臣が簡単な漢字も読めない事実に驚愕した。それは総理大臣の国語力の低さに対する驚きではなく、その程度の国語力でも、一国の総理大臣になることができてしまうこの国の政治レベルに驚愕している。

総理大臣にまで上り詰めるまでには、その能力を問われては磨かれるという幾多の試練があったはずである。その繰り返しを経て、初めて総理大臣にまでなれるものではないだろうか。しかしながら麻生氏の国語力を見ると、この国の政治には知識、能力、政治力とは、何か別の分野での「才能」が必要とされているようだ。

今世紀になっても、未だ非合法ともなりかねないレベルでの「世襲政治」を国民が許し、支持している結果の表れに他ならない。元首相の小泉氏には一定の評価を持っていたが、それも昨今の世襲表明で一蹴した。

一国について考えるとき、私はどこの国にいても、いつもその土地の「ハードとソフト」について全身で感じ取ろうとする。街並や景色など、物質的側面だけでなく、そこに生活する人々の考え方や価値観、政治などについて考察することに興味がある。

一国の社会の質は、民主国家であればその国の政治によって大きく左右される。政治によって決定付けられると言い切っていいかも知れない。そしてその政治は国民によって選択され、それを選ぶ国民は、生まれ育った環境、すなわち親、家族、学校、地域社会、国家によって形成される。ここでまた一周し、国家は「政治の質」で決定付けられる。この(悪)循環を断ち切るには、やはり政治力で断ち切るほか、現状では切り口はない。よって日本にこそ、強いリーダーシップと、尊敬される人間性を持った国民の代表が必要なのだ。

国民が「大きな希望と安心」を持つことができるのなら、そこからは時間を要しても、質の高い国家へと育っていくことができはずである。良いハードウェアを持ちながらも、お粗末なソフトしかない国家では、そこには人としての真なる幸せを感じる人生は築かれない。現在の日本はまさに「金はあるけど愛はない」と言った国家になってしまっている。

社会がこれを良としてしまえば、立派な親も師も存在することなく、犯罪や自殺が増加する一方である。人を騙し傷つけることが、いとも簡単に、日常的に行われている今の空虚な日本社会を、どこかで変えないかなくてはならない。