2010年2月23日

トヨタ問題 その深度は..

米国でのトヨタ問題が長期戦の様相を見せている反面、国内では早々に終息に向かっているかに見える。この差は一体何であろうか。

国内での報道を見ているとまるで外国企業のスキャンダルを見ているかのごとく錯覚してしまうほどだ。それもそのはず、民主国としては違憲なまで国家に守られた放送業界が、過去も未来も超優良顧客と位置付ける“おトヨタ様”を失墜のリスクにさらすわけにはいかないからである。

自動車業界と国交官僚らが“適当”に作り上げた日本のリコール制度。欧米の制度を模倣し、批判をかわすため形式だけは整えるが、いつも中身はその目的が満たされていない。とんだ茶番劇である。これまで「官・業」“すり合せ”により問題を事前に調整し、“リコール扱い”としてきた。その認定基準もあってないようなものである。もし今回の同社のアクセルペダル・フロアマット問題が国内で発生していたのなら、当局との事前協議により、”定例”の「サービスキャンペーン」として片付けていたであろう。仮に何らかの形でリコールとならざるを得ない場合でも、メディアも騒がない以上、ユーザーに対しては愛車が“カイゼン”されるとの一種の安堵感すら演出してしまうのだ。

しかし今回のリコールは今までとはわけ違う。自慢の自社製品が顧客である米国市民を殺害しているのだ。それも少数ではない。トヨタはここを見誤ってはいけない。米国においても、特技の「天下りの受入れ」や「官僚の手なずけ」が仮にうまくいったとしても、メディアや市民の扱いには最新の注意を払わなくてはならない。現地のメディアは日本とは比べ物にならないほど開かれており、国民が有する情報量とそのネットワークは世界一とも言える。これを決して見くびるべきではない。そこを見誤ることがあれば、同社にとっては致命的な傷を負いかねない。

自動車とは「何か」を考えるとき、国内の自動車会社はもとより、日本国民にも是非ご理解頂きたいことがある。いかなる優れた機能や装備があるにせよ、自動車の基本中の基本は「走る・曲がる・止まる」この3点に尽きるということである。自動車の価値はこられによって決まるものであり、本来ハイテク装備を第一に求めるものではない。

今回のトヨタ問題は、レクサスなどのアクセルコントロールが不能となる「走る」の欠陥に始まり、プリウスなどのブレーキの利き方による「止まる」の問題。さらにはカローラなどで走行中ハンドルが取られてしまうという「曲がる」の問題など、どれも自動車づくりの基礎的な技術完成度を問うものである。安全を前提とする自動車製造の根本を揺るがす大問題である。環境問題への取り組みも重要だが、それ以前に顧客の命を守ることを最重要視して頂きたい。

戦後、「成長・拡大」路線をまっしぐらに進んだトヨタの自動車製造。トップのプライドと自信があるのなら、規模を半減させてでも欧州社の車作りに見習い、自動車製品の基本となる部分を一度総点検する必要があるのかもしれない。

2010年2月16日

グローバル時代の対応力

キリンとサントリー、統合交渉の破談。「WSJオリジナル版」の記事の中で、「日本企業が持つ風土差による難しさ」との指摘があった。噛み砕いて言えば「協調を苦手とする日本の企業風土」といったところであろうか。

「協調」とは共通の目標のため、自己の利害や立場を乗り越え、時に何かを犠牲にしてでも双方同調し、何かを成し遂げることである。幾多の犠牲を払ってでも、最終的に「全体」として、より良いもの(より強固なもの)を作り上げるための「手段」である。

現代の日本人は自らが言うほど「協調心」を持った国民性ではない。自身の欧米での生活を通して思うことであるが、彼らの方が余程協調心が強く、共通の目標に向かって力を合わせることの重要さをより深く理解している。

法律やルールは、個人が不便を強いられることで「全体」をうまく機能させる典型であるが、欧米では幼い頃の教育段階からこれを徹底している。「不正をして自らが得をする分、そのしわ寄せが第三者に向かう」という、民主国の基本精神を大切にしている。

2010年2月11日

民主国家と自浄作用

枝野氏が行政刷新相に就任した。そのニュースとともに昨日の報道ステーションで紹介されたデータによると、独立行政法人が98、その下の公益法人が4,400もあると言う。

公益法人は民間企業として扱われ、国の関与が及ばない組織である。現政権はこれらを整理していくわけであるが、一体どのくらいの時間と成果が期待できるものなのだろうか。

「自浄作用」という言葉がある。本来の一番適した状態に、自らの力で適応していくことであるが、辞書を見てみると、「川・海・大気などに入った汚濁物質が、沈殿・吸着や微生物による分解などの自然的方法で浄化されること」とある。

これを独法・公益法人の整理に当てはめるのなら、これらを整理すること自体を法律で目的化してはどうか。各組織はフローチャート方式のガイドラインに沿ってその存在意義と、費用対効果に照らして国益にかなっているかを自らが問う。

重要なのは、これらの組織そのものが「民主的」に設立されたものであるのか。今も存続する価値を国民に向けて立証させることである。合法合憲性ならぬ「合理性」を検証するのだ。これは法や憲法に反していないかと言った客観論ではなく、自主的に「民主主義」に反していないことを国民の前で立証し、国民を納得させることを課すものである。

同時に国民も、民主国の一員として、物事の民主性を考える「癖」を身に付けなくてはならない。日本より遥か先を行く欧米の民主性も、そうした民主性に対する国民の「判断能力」があってのことである。

またこれらを遂行できない組織には、大きなペナルティを課さなくてはならない。その作業を怠ったり、ガイドラインの「解釈を誤った」などという言い訳も許されるべきではない。国の金を歪曲させた解釈をもとに、利己的に使用する悪人には、全人生をリスクにさらしてまでそれを行う価値があるのかと言う量刑を用意するべきである。費用対効果や国益性とは曖昧なものであるが、これは政治が人工的に線を引いてでも、政治主導を確立しなくてはならない。

前政権の負の遺産である独法・公益法人。先進民主国中、類を見ない特異構造である。国家を蝕み、長期間抜け出すことのできない不況、デフレ経済を呼び、今では国家の存亡すら危ぶまれている。ついにカンフル剤も効かなくなった今の日本に残された道は、大手術とその後の自律回復力に賭けてみるほか、手段のない段階にまで来てしまったのかもしれない。

現政権の弱者救済型の手当ては、まるで荒波の中で沈む船の甲板に残された人々が、救命ボートも浮き輪もなく、生存を願い、子供たちにスノーケルを与えているかのようだ。その後無事に漂着できた者だけが、未来の日本を生きるであろうか。

何としてもこの「行政刷新」、世紀の大手術を成功させ、「日本沈没」だけは回避しなくてはならない。

2010年2月10日

トヨタ そのリスク許容度は

日本では「お金をたくさん稼ぎ、その金を人目を気にせずに大胆に使う」ことが、長くタブー視されて来た。また頭を使って楽に稼ぐことよりも、体を張って苦労して稼ぐことが「善し」とされて来た。しかしながらそれは表向き。金儲けに関しては控え目に振る舞いつつも、日本は強い拝金主義社会である。トヨタを見るとき、そんなしたたかな日本社会を連想せずにはいられない。

強い拝金主義を抱く人(または企業)に共通していることは、「市場リスクは取らず、権力に寄り添う」という傾向があること。事実は定かでないが、トヨタのような会社が、政府の円安誘導政策に何ら影響力を持たなかったとは考え難いことである。リスクを嫌い、新興市場進出でも他社に後れを取り続けたトヨタ。自動車業界にとっては、後発によるメリットより、そのデメリットの方が大きいのではないだろうか。

社会が安定している時代であれば、リスクを取らない経営は確実である。そして社会が不安定であれば、尚更リスクを取ることができない。しかしながら大きな社会変革の時代、すなわち「パラダイムシフト」が起きようとしている今の時代、「リスクテイキング」なく勝ち続けることができるだろうか。リスクテイキングを否定する企業が、そのような時代と世の中で、初めての大きなリスクを取ることになったらどうなるであろうか。トヨタには「企業リスク」を感じてしまう。

トヨタは名実ともに日本を代表する企業であると同時に、極めて「日本的」な体質を持つ企業でもある。同社の不祥事隠ぺい体質が言われる中、仮に米国政府が「営業停止命令」を下した場合、その対応力が問われるところである。「政治力」など及ばない、国内とは全く異なるが対応能力が問われるからだ。

2010年2月7日

人民元切上げとハイチ支援

人民元切上げ、中国政府は既にその覚悟ができているに違いない。今はそのタイミングを「温存」しているかのように見える。

経済危機以前に人民元を切り上げたのなら、欧米は「当然のことだ」との論調を世界に発したに違いない。日本もそれに同調する。しかしながら欧米経済がぐらつき、外からの助けを必要とするタイミングで人民元切上げたのなら、世界は「中国に助けられた」という気持ちなる。中国政府はそんなタイミングを待っているように思える(しかしながらここに来て、中国政府は現在の過熱経済を鎮静化しようと行動を取り始めている。よって先のタイミング以前に、自国経済の便宜上、切上げを早める可能性も高まっている)。

中国は世界一の米ドル債権国。米国経済にとって最重要国の一つである。それほどの経済的重要国に対し、通貨を切り上げないからと言って安易な制裁など発動できるはずもない。仮に何らかの制裁が発動されたところで、中国が大きく動じることも考え難い。

中国政府の言葉通り、中国が「覇権主義」を取ることはない。覇権主義の維持には多大な労力とリスクが伴う。覇権主義を取るかのような振る舞いは「外交」の枠を出ない。日本が欧米の「食い物」にされた失敗を良く見ている中国は、自国の自由な発展のため、必要とあらば米国に「ノー」と言わなくてはならない。アジア最後の経済フロンティアと言われるミャンマーも、世界との国交が始まれば日本型の経済大国になりたいとは思わない。それには強国とある程度の「対等」な関係が必要であり、時に軍施設を誇張して披露することも有効である。中国は、米国に「ノン」と言って来たもう一つの国、フランスの対米外交を深く研究しているに違いない。

米国やその他、世界に影響力を持つ国々と対等な関係を保つには、軍施設の誇示だけでなく、国際的な尊敬を獲得しなくてはならない。中国はハイチへ一番乗りで支援に向かった。地震発生からわずか30時間後には、救援隊は地球の裏側へ到着しているのである。これは驚愕に値する。(日本は6日、ようやく第1次隊を羽田から送り出したとのことであるが、これもまた逆の意味で驚愕もの)。

この中国のハイチ支援は「自国PKO特派員の救出」や、「対台湾政策」などと言う論調も聞かれるが、それだけでこの「スピード」を得られるはずがない。救援隊の迅速な派遣には日頃の十分な準備が整っていて初めて可能となるはずである。これは世界に対し大きなインパクトを与えたが、これまでそのスピードを世界に披露してきたフランスが、今回一番驚かされたのかもしれない。

さらにこの両国の外交基本姿勢は「徹底的な対話」である。そうした姿勢を大々的にアピールすることはないが、度々米国との「密談」が囁かれるように、「裏口」をノックされればドアを開けるのが中国外交が持つ側面である。

軍事力を対外的に誇る姿勢は純粋に「存在感と防御力」を世界に示すためであり、「中国人民軍脅威論」などは、北朝鮮脅威論とともに、日米が自国の国防費捻出を円滑にさせることを狙ったプロパガンダに過ぎない。 

これまで欧米一辺倒であった世界のメインストリーム。今世紀は中国の存在の高まりとともに、またアジアが世界をリードする時代が来てもいいではないか。日本国民には、欧米に媚びることなく、アジア人種であることを思い出してもらいたいものである。