2010年2月16日

グローバル時代の対応力

キリンとサントリー、統合交渉の破談。「WSJオリジナル版」の記事の中で、「日本企業が持つ風土差による難しさ」との指摘があった。噛み砕いて言えば「協調を苦手とする日本の企業風土」といったところであろうか。

「協調」とは共通の目標のため、自己の利害や立場を乗り越え、時に何かを犠牲にしてでも双方同調し、何かを成し遂げることである。幾多の犠牲を払ってでも、最終的に「全体」として、より良いもの(より強固なもの)を作り上げるための「手段」である。

現代の日本人は自らが言うほど「協調心」を持った国民性ではない。自身の欧米での生活を通して思うことであるが、彼らの方が余程協調心が強く、共通の目標に向かって力を合わせることの重要さをより深く理解している。

法律やルールは、個人が不便を強いられることで「全体」をうまく機能させる典型であるが、欧米では幼い頃の教育段階からこれを徹底している。「不正をして自らが得をする分、そのしわ寄せが第三者に向かう」という、民主国の基本精神を大切にしている。

よって「協調が成し遂げるもの」、「非協調性で失うもの」への議論も活発だ。よく日本人は「木を見て森を見ない」とか、「手段を目的にしてしまう」と言われる。「民主国の基本精神」への教育不足が、「協調心の欠落」ひいては「全体像を見ない体質」につながっているのかもしれない。

また多くのことを「勝ち・負け」で評価する価値観も問題だ。「森」を見て協調を試みたはずが、我と言う「木」を大切にするがあまり、結局は「譲る」ことができない。譲ることは「相手に負けること」と捉えてしまい、交渉によって「今あるものを失う必要はない」と、方向性を変えてしまう。結果、「全体像」を見落としてしまう傾向にある。

「今必要でないが先を見据えて動く」ことは当然リスクを伴う。このリスクばかりをクローズアップし、それに囚われてしまえば生き残るために必要な「賭け」などできるはずもない。自ずとその賭けに必要な「勝率計算」も苦手な体質ができ上がる。

長年国民の代表を務めた前政権はその典型である。小泉氏と言う変わり者ではるが、救世主が出現したにもかかわらず、変化を恐れ、互いに派閥を組んで我を主張することに囚われてしまった結果、その存在すら危ぶまれた歴史的敗退を期すこととなった。「危機感がない」との表現もあるが、「世界観がない」と言った方がしっくり来る。「島国だから外に出た英国」と、「島国だから外から来るものを排除する日本」の差が今もここにある。前者は、自国の常識を世界スタンダード化することに成功し、後者は世界標準を受け入れることに苦慮している。

欧米の(零細)企業経営者からよく耳にすることは、「日本企業との商談や提携には非常に多くの時間と労力を要する、なかなか信用してもらえない、信頼関係が築けない」ということ。同じ商談を欧米やアジア企業と行った場合、要する時間と労力は10分の1で済むと言う。これも「文化の差」であることに異論はないが、文化の差に付き合うほど、今のグローバル経済は「文化的」ではない。グローバル経済は言い換えれば「シングル経済、共生社会」であり、ここにミクロな「企業文化」を持ち込むようでは、グローバル時代に向けた戦略的企業統合など難しい。必要とされるのは、大局を捉える感覚と正しい世界観である。そして広く正しい世界観を養うには、その基礎となる歴史観が問われる。