2010年2月11日

民主国家と自浄作用

枝野氏が行政刷新相に就任した。そのニュースとともに昨日の報道ステーションで紹介されたデータによると、独立行政法人が98、その下の公益法人が4,400もあると言う。

公益法人は民間企業として扱われ、国の関与が及ばない組織である。現政権はこれらを整理していくわけであるが、一体どのくらいの時間と成果が期待できるものなのだろうか。

「自浄作用」という言葉がある。本来の一番適した状態に、自らの力で適応していくことであるが、辞書を見てみると、「川・海・大気などに入った汚濁物質が、沈殿・吸着や微生物による分解などの自然的方法で浄化されること」とある。

これを独法・公益法人の整理に当てはめるのなら、これらを整理すること自体を法律で目的化してはどうか。各組織はフローチャート方式のガイドラインに沿ってその存在意義と、費用対効果に照らして国益にかなっているかを自らが問う。

重要なのは、これらの組織そのものが「民主的」に設立されたものであるのか。今も存続する価値を国民に向けて立証させることである。合法合憲性ならぬ「合理性」を検証するのだ。これは法や憲法に反していないかと言った客観論ではなく、自主的に「民主主義」に反していないことを国民の前で立証し、国民を納得させることを課すものである。

同時に国民も、民主国の一員として、物事の民主性を考える「癖」を身に付けなくてはならない。日本より遥か先を行く欧米の民主性も、そうした民主性に対する国民の「判断能力」があってのことである。

またこれらを遂行できない組織には、大きなペナルティを課さなくてはならない。その作業を怠ったり、ガイドラインの「解釈を誤った」などという言い訳も許されるべきではない。国の金を歪曲させた解釈をもとに、利己的に使用する悪人には、全人生をリスクにさらしてまでそれを行う価値があるのかと言う量刑を用意するべきである。費用対効果や国益性とは曖昧なものであるが、これは政治が人工的に線を引いてでも、政治主導を確立しなくてはならない。

前政権の負の遺産である独法・公益法人。先進民主国中、類を見ない特異構造である。国家を蝕み、長期間抜け出すことのできない不況、デフレ経済を呼び、今では国家の存亡すら危ぶまれている。ついにカンフル剤も効かなくなった今の日本に残された道は、大手術とその後の自律回復力に賭けてみるほか、手段のない段階にまで来てしまったのかもしれない。

現政権の弱者救済型の手当ては、まるで荒波の中で沈む船の甲板に残された人々が、救命ボートも浮き輪もなく、生存を願い、子供たちにスノーケルを与えているかのようだ。その後無事に漂着できた者だけが、未来の日本を生きるであろうか。

何としてもこの「行政刷新」、世紀の大手術を成功させ、「日本沈没」だけは回避しなくてはならない。