2010年8月13日

問われる国家の主体性



株価等、経済指数の動きにも表れている通り、今や日本の経済は米中次第であり、国防に関しても完全に米国次第である。国家の戦略的基幹インフラについても、過去にインターネット、ブロードバンドの普及では韓国に大きく引けを取った。電子政府、医療情報化、空港、港湾等の整備に至っては、今や同国をモデルとするに至っている。原口総務大臣が電子政府等の視察のため、同国を訪れたことが記憶に新しい。FTAにおいても日本をしり目に、同国は既に先進的な立場にいる。

日本は長年、政治・経済の分野において欧米を模倣することを基礎に成長して来た。このことで、日本は民主資本主義体制にありながらも独立国家としての「主体的・独創的な思考力」が形成されなかった。結果、国政の重要な部分は他国と連動して政策を取るようになり、法整備も他国をモデルとする主体性のない国家へと“成長”してしまった。

これを見ていると「日本には本当に政府が必要なのか」と、冗談ともつかぬことを考えてしまう。この先も主体性を持たない、持てないのであれば、人民元のドルペック制のように「米国政治ペック制」を取ってはいかがか。戦争以外の政策を米国と同調させることを法制化し、それを遂行するための機関としてのみ行政を持つ。

名ばかりの民主主義である今の政府・行政がなくなとも(現代日本の最大の受益者がいなくなっても)、さほど大きな問題にならないであろう。失ってはならない日本の美しい伝統とその維持についても、米国主導が返って効率的かもしれない。

つい十数年前まで、日本人は欧米への憧れに溺れ、日本の伝統を軽視して来た。しかしながら自らの伝統の美しさを思い起こさせたのは皮肉にも欧米人達であった。戦後にわかに始まり、バブル期が終わるまで続いた欧米での日本ブームが、「欧米で人気」であったことで日本に逆輸入され、それが自らの「出身(欧米ではなかった!)」を振り返らせる契機となった。

日本の民主主義は「政府主導」で外から持ち込まれたものである。これは欧米とは大きく異なる。日本の政治がこのままであっては、世界で最初に民主主義の失敗を宣言する国になってしまうかもしれない。主体性のない者は強い者と運命を共にすることはできても、自らの道を切り開くことはできない。