2010年9月18日

奪われる資産価値― 国内デフレと対外円安

「円安政策が急務である」と政府、国民に訴えながら、その横で生産拠点を海外へ移していく製造企業がある。それが大手輸出産業企業であり、「産業の空洞化」を率先して進めている張本人である。

こうした企業らの通貨安政策要求に従い、先日、政府もついに「市場」に手をつけてしまった。自由競争の促進、保護貿易の排除、市場の透明性と個人マネー流入の促進が強く求められている昨今においてである。多大な国民負担によって多少の円安相場をつくり出したところで、彼らがこの先永遠に生産拠点を海外へ移さない、国内の雇用を奪わないという確証はない。法規制なしには、今後も堂々と生産拠点を海外へ移して行くに違いない。

非常にコンペティティブな世界市場において、今後は生産コスト面だけでなく、相対的な技術・生産力の低下や、国内の少子高齢化を補うべく、企業らは生産・開発拠点を必ず海外へ求め行くはずである。

いつも不思議に思うことは、輸出企業のレート設定においてその根拠が示されていないことである。言わば恣意的なレート設定であり、これによって業績予想を公表している。今年度第2四半期以降を見れば、トヨタが90円、ホンダが85円と想定している。実に5円も違う!仮にトヨタが85円で設定してれば現在の株価はもっと低いところにあり、ホンダが90円で設定していれば株価は現在より高い位置にあることが考えられる。作為的である。これら輸出上場企業らは勝手に想定レートを設定し、そのラインを越えれば「業績が下がり雇用が減る」と訴え、政府、株主、社員に対する影響力を行使する。

国内では雇用を減らし続け、逆に海外では膨大な雇用創出を続けているこれらの企業は、「今年度は数千人を雇用」などと公表するも、中身は過半数が外国人を雇用しているケースも少なくない。これが意味するところは、彼らは既に為替レートの動向には十分な適用力がある上、自国への貢献、雇用創出には関心がないということである。

大多数の日本国民は長期間に渡り資産価値を目減りさせて来た。これは諸外国とは極めて対照的だ。国内ではデフレにより資産価値が奪われ、対外的には円高によって資産価値が上昇し始めたと感じたところに政府の為替操作が入り、また対外資産価値減少の方向へ向かわせようとする。

この先も増え続ける日本の貧困層にセカンドチャンスはあるのだろうか。庶民が資産形成を安心して行える平等かつ透明性の高い市場とその維持が強く求められている時代だと言うのに。

これからの日本に必要なのは個人への給付金ではなく、大企業が提供する種の職でもない。収入は少なくとも人生に生き甲斐を感じることのできる「職」を、一人でも多くの人が得ることのできる社会が欲しい。大企業に振り回される国家構造では国民が得ることのできる「幸せ」は少ない。一層のこと社会の大転換もいいかもしれない。

いかなる権力者であっても所詮、人の子。彼らも「人生防衛」に走っているのではないか、サバイバルゲームに参加しているのではないか、これでグローバルな競争に生き残っていけるのかと、今の日本のあり方を見てそう感じてしまう。これまでの「日本株式会社」方式を続けていては、それが未来の日本に幸せを運ぶとはとても思えない。



2010年9月15日

市場操作

政府の為替介入で市場は大混乱だ。為替、株式、債権市場ともに大きく動いている。

個人の現金資産を市場に呼び込もうという昨今、それを後押しする立場にある政府が市場を揺さぶるようでは、日本市場は個人が安心して投資できる環境にないことを宣伝してしまっているようなものである。

世界経済を猛勉強して市場に参加しようともそれが通用しない。日本市場ではギャンブルセンスに長けているほうが有利なのかもしれない。

2008年の金融危機後、先進国としては初の「市場操作国」ということになると思うが、国の経済全体に与える効能を科学的に検証することなしに、一先進国が「ついにやってしまったか」との思いでならない。

この日本政府の「外貨・外国債投資」は、果たして日本経済に恩恵をもたらすものになるであろうか。結果的には損失を積み上げるだけのような気がしてならないのだが。

― 自己の他ブログサイトより転記 ―

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2010年9月12日

「子を見て親を知る」

シンガポールは大変好きな国の一つ。香港と並び、どちらも英国植民地支配の影響による秩序だった街並に好感する。

都市計画もさることながら、その厳格な“都市運営”に感心させられる。これは単にルール違反に対する罰則が厳しいということだけでなく、教育(disciplineに対する市民の心構え)が、いい意味で厳格なのである。

「子を見て親を知る」と言うが、面白いもので植民地支配にも同様のことが言えるのかもしれない。そう、シンガポールや香港の対照的な例が韓国や台湾。

日本と同様、韓国や台湾の街には雑居ビルが乱立し、無秩序なネオンが都市の品格を下げている。日本のようにパチンコや風俗が駅前を占拠することはさすがにないが、歩道上の身勝手な置き看板や放置バイクなどは、日本譲りの「都市運営」である。これらの多くは解放後に日本から入ったものだが、同化政策による日本式の植民地支配なくして、ここまでの影響はなかったであろう。

韓国に行き、ある観光地で入った店で、隣に座っていた日本人観光客の会話が印象的であった。私を見て、日本語を流暢に話すとは思わなかったのかもしれない。韓国の芸能人について(?)の話から、街で見るもの全般についての話しになり、「あれもこれも日本のマネばっかり」といった内容の会話。イギリス人がシンガポールや香港を旅行し、イギリス式の何かを見て、「イギリスの真似ばかり」などとは決して言わないであろう。

韓国人の友人達がみな口を揃えて言うことは、「同じ植民地支配されるのなら、(今となっては)イギリスやフランスにされればよかった」ということ。恐らく日本人でさえ、今の韓国や台湾より、シンガポールや香港のほうが、その街並はより魅力的であると感じているのではないだろうか。

仮に「韓国がフランスに植民支配」されたのなら、結果的には現在の南北分断もなかったわけであり、マカオがポルトガルの街並を有するように、同国もフランスの街並を誇っていたのかもしれない。

隣国にそのような国があったのなら、日本人にとってもより魅力的な週末旅行が楽しめたに違いない。もちろん、日本が江戸時代までの様相を呈していたのならきっと素晴らしく魅力的な国家になっていたと思うのと同様、韓国が李氏朝鮮時代のオリジナルなら更に良かったと思う。

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国民の機会損失と業界のエゴ 4

このような日本の鉄道事業、「世界知らず」な日本の政治家は、昨今の米国鉄道計画における受注合戦に対し、「日本の鉄道技術だけでなく、時間に正確な鉄道運営そのものを輸出して儲ければいい」などと言う。このような発言を可能とするには、発言者は2つの大きな事由を見逃している。

時間に正確な鉄道運行は、「技術」ではなく「技量」である。つまり「術」を持たずとも、「機会・環境・資本」が整えば成し得るものである。


過密ダイヤと、多量の列車の往来をさばく緻密な日本の鉄道運営ではあるが、これには莫大な周辺準備コストを要する。鉄道事業だけを単体で行って捻出できる範囲の収益では、過密かつ正確なダイヤと、その確固たる安全性を得られるものではない。


これは日本のような市場寡占が認められている国か、まだ政官業が強大な支配力を持ち、日本型の鉄道事業が許され得る新興国でしかその恩恵に授かることはできない。


また米国での自動車利用が大幅に減少することなど考えられず、国土横断型の高速鉄道事業において、過密ダイヤと時間に正確な運行に多額の費用をかける必要性もない。


2の事由としては、日本の鉄道車両には衝突安全基準が設けられていない。これは致命的である。日立の英国での受注の際に、それが日本の鉄道車両製造企業の「課題」と報道されたことが記憶に新しいところ。数年前のJR西日本の惨劇も、この法整備の遅れと、収益性追及のあまり安全性を確保できなかった結果に他ならない。


これらの事由をクリアできない限り、米国において日本が「総合的な鉄道事業(運営)」を受注することはほぼあり得ない。車両単体の受注においても、原子力発電事業や水道事業同様、現在では不要な排他的規制と、現在に必要な法整備の遅れがアダとなり、国際競争力の低い企業体質ができあがってしまっている。


関連ページ:

国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 2

国民の機会損失と業界のエゴ 3

国民の機会損失と業界のエゴ 3

鉄道事業に関しては、「○○電鉄」とは名ばかり。鉄道事業から得る収益は会社総収益の半分にもならない。それ自体は悪い事ではないが、実際の事業のあり方には問題視せざるを得ない。これも欧米では合法的に行うことはできない種のビジネス。

首都圏には東急、西武、小田急、京急、京成、東武など数多くの鉄道会社が存在する。これらの企業グループは鉄道、建設、建築、土木、不動産、交通(バス・タクシー等)、小売(売店・スーパー・百貨店等)、飲食店、食品製造、テナント賃貸、広告賃貸、観光(ホテル・リゾート施設・ツアー等)と、ありとあらゆる産業をその沿線で支配下におく。


以下全て一企業グループの所有。まるで一企業グループが沿線都市丸ごと、その沿線に暮らす人々の人生そのものを“所有”しているような構図が日本社会には存在する。


1.
鉄道会社は土地を仕入れ、鉄道を敷く

2.
駅を設置しては周辺を宅地開発する

3.
そこへ住宅を建築し、販売する

4.
宅地から駅に向かうバスや、終バス以降の帰宅時の駅前タクシーをも寡占的に運行する

5.
駅前を優先的に占拠し、スーパーや百貨店を経営する

6.
食品を製造し、自社スーパーでPB商品として販売する

7.
沿線にホテルやレジャーランド等を建設し経営する

8.
ホームの売店経営や駅中テナント収入を得

9.
その他、公共の場である駅ホーム、車両内広告等、欧米では禁じられているか、極わかずにしか認められていないことも、これら鉄道事業の完全なる支配下にある。

このような寡占的事業が、一民主国に存在すること自体考えられない。まるでバットマンかスパイダーマン、007などの「世界支配を目論む悪役」を地でいっているかのよう。


関連ページ:

国民の機会損失と業界のエゴ 1

国民の機会損失と業界のエゴ 2



国民の機会損失と業界のエゴ 2

つい昨日もテレビ東京ホールディングスなるものが担当相によって認められてしまった。そのようなことを同省令で禁じているにもかかわらずである。表面的には新聞社は含まれていないが、新聞、ラジオ、テレビが同一資本となる日本型のメディア事業は、欧米では合法的に事業を行うことはできない。

日本ではその弊害が既に出ている。政治家がメディアに媚びを売る姿が目立つ。政治家の不祥事であれば連日連夜取り上げる種の報道も、一部の影響力のある芸能人に対してはその不祥事がメディアで取り上げられないか、取り上げられても一回の報道で終わってしまうことがある。 


印象的であったのは、みのもんたが、自身の経営する水道メーター会社が長年談合を続けていた事件で、最終的に本人が罪に問われなかったばかりか、テレビニュースの報道も日本における同種の事件としては極めて小さなものであった。しかも氏はレギュラー番組を登板し続けた。


関連ページ: 
国民の機会損失と業界のエゴ 1

国民の機会損失と業界のエゴ 1

JALは日本の歪んだ政治・経済・社会の縮図。同社の行く末を見れば日本の未来が占えるかもしれない。

航空業界においても日本は規制緩和が遅れた。日航の破綻は「複合悪」の象徴である。その代表的なものが「政・官・既得権者(企業等)」による業界支配。新規参入を拒む「仲良しクラブ型規制」が長期間維持されるあまり、平行する多くの経済活動が阻害されてきた。

本来、産業とは、成長とともにその裾野を広げていくものであるが、日本の場合、新興国並みの排他的規制により、産業そのものが「縦割り社会」を形成している。

キャピタリズムが機能していない日本の新興時代には、当然のことながら自国産業を外から守る何らかの規制は必要であった、ある程度成長を果たし後にもこの体質から抜け出せないでいると、その国家は衰退の道を辿ることになる。体質を変えられないのなら、逆に国家規模をリストラ、縮小し、社会主義的な福祉国家を目指すしかなくなる。

規制(法律)が必要なところに法整備が遅れているのが日本社会の特徴である。特に航空業界、メディア、鉄道業界等では、市場寡占に関する法整備が遅れている。業界が規制緩和を阻止し、今もなお政治がそれを受け入れている日本のあり方は、民主国家を滅ぼす「帝国主義回帰」への予兆であるとさえ私は考えてしまう。

2010年9月5日

「日本株式会社」とその体制維持 国民生活にどうプラスに働くのか、政府は科学的論拠を述べよ

いつも円高になると、慌ててバンドエードを貼るような政策論が出てくる。

「円高は国家を衰退させる」といった論調が、円高になる度に政府やメディアから噴出する。日本国の自立を本気で考えたとき、「円高」は本当に悪と言えるだろうか。日本は「円安」に依存する経済モデルからの脱却を議論すべきである。

円安依存の背景は、輸出企業に依存した経済構造にあり、これは高度成長期型、外需依存型経済である。成長シナリオは「客(外国)」次第。米国や中国、欧州等、外国の発展が自国の成長シナリオの基盤なのである。日本はこれで良いのだろうか。

ビジネス経験を持つ者であれば、誰でも「客次第の経営」など本来したくないものだ。生きるも死ぬも客の消費動向次第のビジネスと言うことであれば、経営者に優れた能力は必要ない。一国の経済がこのような状態では、機動的成長戦略を持つ他国が魅力的に見えて当然である。

日本の自国通貨安政策についてまず思うことは、政・管・メディアと親交の深い輸出企業を「優遇」することが目的化されてはいないだろうか。円高になる度に「円高悪論」、「輸出企業擁護論」が政府、メディアから反射的に起こる。まるで円高でGDPに貢献する企業や個人事業主など存在しないかのようである。

輸出企業は政府、メディアが保護してくれることをいいことに、目先の帳尻だけを持ち出し、「仕入れコスト」の低減にはあまり触れようとしない。彼らが「輸入」に頼っている原材料費は現在超ディスカントとなっており、現物、先物取引を問わず既に息を呑んで買いあさっているはずである。さらに海外企業の買収(または部門買収)等、円安時には非常に困難であるが、円高時には比較的容易である。これは企業を将来大きな成長へ導く可能性を持つ多大な恩恵である。自国通貨高は、“成熟”し人口減少を迎える国家にとっては本来もっとポジティブにとらえられるべきである。

こうしたことなどを詳細に分析することなく、多額の国費を安易に米国債に振り向ける行為は、輸出企業に「補助金」を与えるのとほぼ同意義である。多額の国費を担保にした円売り外国通貨買いが、日本国の発展にどう寄与するのか、政府、メディアは科学的な論拠を示したうえで政策を論ずるべきだ。輸出産業を優遇する傍ら、個人事業主がリスクと取って稼ぎ、税をおさめた後に蓄えた資産価値を、為替操作によって安易に目減りさせるべきでない。するのであればそれを正当化するだけの科学的根拠を国民に示すべきである。

また「為替介入」と言えば聞こえはいいかもしれないが、これは立派な「市場操作」であり、結局は米国債を買い支える行為である。日本国政府は国費を使用して、米国の長期金利低下を後押しているわけだ。他国債を買い支える以前に、自国債を買い支えではどうだろうか。

別の見方をすれば、日本の為替介入は「外為投資」であり、「外国債投資」である。当然、為替変動により損益が発生するわけで、政府が輸出企業の業績保護を目的として、国費をリスクにさらすことにつながる。

現にこれまで数十兆単位で損失が発生しているとのことであるので、その予算で内需喚起する政策が取れていたのなら、もともと介入が必要となる事態に陥らなかったかもしれない。

今後とも米国債の購入を行うのであれば、事前に現在ある損失と、後に発生し得るリスクや損失について公表し、何らかの対処をも用意した上で介入すべきである。自国債を買い支える以前に米国債を買い支えることが、日本国の発展に有益とするのなら、その科学的論拠を事前に示すべきである。

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