2010年1月31日

高まる「新民主主義」への期待

資本主義が世界を席巻して数世代が過ぎる今、「富の固定」が機会の格差となって新たな「階級差」を生み出している。我々は、今の制度が「機能し続けるのか」と、問うべき時に来ているかもしれない。

現代社会においては、世界平和と民主性を分けて考えることができなくなっている。過去には、王が強いリーダーシップのもと国々を統治し、力による和平を築いて来た。しかしここには階級格差、またはそれに準ずるものが存在し、半ば「威圧的な和平」であったと言える。市民は階級格差の中で、ある程度の生活水準と共に、満足と不満足の間で均衡を保って和平を謳歌したのかもしれない。しかし現代の民主社会においては、人々はそれだけでは満足しない。国家の最高権威である憲法によって、「機会平等」が保障されていなくてならない。にもかかわらず、現状はこれが達成されているとは言えない。

米国は第二次大戦以降、それまでの欧州とは異なる方向性を持ち始めた。欧州先進国では「国民生活の向上」に政策の焦点を当ててきたのに対し、米国ではパックスアメリカーナやレーガノミクスと呼ばれるように、「世界覇権」を目指してきた。しかし冷戦以降、この米国の覇権主義に大きな疑問符を投げかけられている。強いリーダーシップで国を治めた王政同様、こうした民主主義もそう長くはもたないかもしれない。憲法が保障するところの完全なる「平等」が、事実上ないからである。

これまで日本は米国に守られ、そして米国に憧れ、米国を国家のバイブルのように扱ってきた。しかしそれは皮肉にも、小泉氏のような超親米派の指導者を最後に、長期に渡り日本を支配し、米国支配を歓迎する政党を国民は選択しなかった。我々は昨年の政権交代により、日本の新しい将来像へ向け、舵を切り始めたばかりである。

政治の通信簿

政治に「通信簿」をつけることは大変困難なことであるが、民主社会においては「悪い政治」を数的に表すことは可能であると考えている。

その1つは、対総人口比で毎年どれだけの命が奪われているかを見ることである。例えば、政治が悪く「交通行政」が悪化すれば、毎年多くの交通事故によって国民の命が奪われる。また「警察行政」の悪化は治安の悪化として現れ、殺人などによる被害者数が増加する。さらに経済の低迷や医療、年金など社会保障の不安定化も、医療サービスが低下し死亡率が上昇したり、自殺者数の増加へもつながる。極めつけは戦争による犠牲者の増加だ。

あれだけの惨事となった阪神・淡路大震災でさえ犠牲者は約5千人。世界中であれだけ批判されたイラク戦争でさえ、犠牲者は約1万人。もちろん大きな犠牲である。しかしながら日本では、自ら命を絶つ人々が毎年3万数千人もいる。人口比率で見て、先進国中、断トツ1位である。2008年比は米国の2倍以上、英国の4倍近くと言うデータもある。

これは明らかに政治が悪い。結果、民主国家とは思えないほど社会が疲弊し、人々が希望を失っている。何をさておいても、人権、人命を大切にできない民主政治など成立しないのである。

2010年1月29日

日本国「総ニート化」― 隣国に学ぶもの

■住環境先進国と経済新興国

グローバル経済を大きく二極に分けるのなら、一極には産業革命以降成長を続けた先進民主国、いわゆる「西側諸国」と、対極に幾多の試練を乗り越え成長を続ける新興国と呼ばれる国々がある。

仏国、独国、北欧諸国、英国、米国などはその生活水準から、やはり先進国であると言える。民主化が進み、個人レベルの生活を収支ベース(補助金等を含む対全所得ベース)で見たとき、その購買力、居住環境等を上回る水準を提供する国は他に見当たらない。

対して新興国側の中国は、産業革命まで世界の富の中心であったとされるが、英国にアヘン漬けにされ、日本を含む列強に国土を蝕まれ、その後の政治的大混乱などを経て国の発展が大きく遅れた。

韓国は今も発展著しい。日本による植民地化のため、自前での発展が許されなかったことや、朝鮮戦争などを経て遅れてスタートを切ったことなどから、これまで国の発展が遅れていた。しかしながら「哲学発祥の地」とされる国民性ゆえか、各学問や芸術性に長け、現在では国家の計画的発展にその才覚を発揮し始めている。それは直近の金融危機まで、世界中から巨額の投資マネーが流入していたことにも表れている。昨今の韓流ブーム以降はまだしも、それ以前の日本での同国に対する評価は目を覆うものがあった。しかしそれとは正反対に、世界からは高い評価を受けていることがデータ上においても伺い知ることができる。

日本は過去の軍事政権の失敗により戦勝国に占領され、その後再スタートを切ることとなった。このため先進諸国に再度大きく後れを取った。その後「経済新興国」とか、「1億人市場オープン」などと欧米先進国にもてはやされ、既に60年が経過するが、未だ「成熟」の域に達しているとは言えない。「自分さえ良ければ」とも思える移民を受け入れない姿勢、政府による民間市場への直接介入と為替操作、ODAと称す政治に近い企業への税を注ぎ込む特別事業の分配など、およそ先進民主国とは言えない部分が目立つ。その差はあるにせよ、韓国とともに言わば先進国と新興国の中間に位置すると見るべきかもしれない。細部に目を向ければ、韓国は既に移民を受け入れ始めている。

■政官業メディアによる国民支配構造を築き上げた日本

一国の経済が高度成長を終えた後は、それまで国内産業を保護していた規制を徐々に解いていかなくてはならない。同時にそれまで仲間意識によって守られて来た暗黙のルールを法制化、そして違反者への罰則を強化する法整備を行わなくてはならない。

高度成長を終え、需要が喚起しきれなくなった日本の国内市場は、外から見ればその魅力が剥落している。「世界の常識」に合う法整備(規制と規制緩和の両面)の遅れは、外資逆流を誘発し、いずれその流出を食い止める事が出来なくなる。特にこの時期、金融、インフラ分野での規制緩和の遅れは致命傷となる。日本はそれらに遅れ、いわゆる失われた10年を20年へと変え、今日ではそれも30年目を迎えている。その間、韓国は空港、港湾の自由化を進めアジアにおけるハブ機能を確立させ、外国資本に対する国内投資優遇などを積極的に進めている。

日本は一通りの発展を遂げたものの、国家として一番重要な国防を他国に依存してしまった。自己の危機管理能力を失う結果を招いている。イラクのように米軍撤退、完全独立を選択、追求する道をこれまで日本国民、指導者らは選択しなかった。カネ(または経済力)の魔力に負け、国家としての自立を忘れてしまった感が否めない。米国依存の選択は、世界の荒波にもまれる機会を長年避け続けることとなった。言って見れば、日本国「総ニート化」してしまったのである。

冷戦下、「新興国日本」の共産化を避けられるか否かが、結果的に東西対立の勝負を分けるところとなった。日本の共産化を絶対阻止しようとする欧米側の配慮からか、それを利用しようとする日本のしたたかさからか、プライドを捨てた欧米模倣・依存体制がニート化から脱却できない体質を築いている。企業のマーケティング力欠如、政治の改革力欠如、行政の国民支配などを現代にもたらしている。

この先、国家の大修正を行わなければ、日本だけが世界の進化からの流れから逸脱することになるかもしれない。「日本は成熟経済」とする世界を知らない経済学者も少なくない。体だけ成長しても「成熟」と言えるものではない。

Japan, the Sovereign Risk

<国家経済運営能力>

デフレが長期化している。デフレは国民資産を目減りさせ、消費活動を抑制する。この間、世界経済は大きく伸長した。日本と先進国との間では生活水準格差が拡大し、逆に新興国との間ではその差が大きく縮小した。こうした状況が20年もの間続いている。デフレかリフレかはさておき、政府の「国家経済運営能力」が問われている。

リーマンショック以前、首都圏は一時的に「悪いインフレ状態」にあったと言える。一部の商業地はバブル期以上の価格で取引され、「億ション」がよく売れた。世界的な資源需給のひっ迫から商品価格が高騰し、同時に人材不足も深刻化した。それまでのデフレ懸念など吹き飛んでしまうかのような変わりようであった。一方で貧困層、ワーキングプアと呼ばれる層が急速に増加し、いわゆる二極分化がより顕著になった。2003年からの景気回復時には、まさにそんな悪いインフレが表面化し始めた。

わずかな期間で事態は一変した。2008年秋のリーマンショック以降、それまでとは全く違った経済環境となった。デフレが再開、加速し、再び「就職氷河期」も言われ始めている。このように短期間に物価や雇用情勢が乱高下を繰り返す日本経済は、「物価安定」を保つことのできない構造に陥っている。

<生活防衛と消費の無気力化>

いわゆる「資本主義社会」において、デフレ社会は非効率な経済活動を余儀なくされる。商売をしようにも買手が減少する一方で、事業主はまともな利益の出る水準で商品を売ることができない。利益効率の最大化を追求する資本主義が成立していない。

政府、メディアの国民へのスリコミとは裏腹に、欧州との比較において、日本の生活コストに対する社会保障は極端に低い。国民は節約買い(或いは安物買い)に走り、結果、企業収益が低下し、失業率が上昇している。人生に「やり甲斐」を得られない質の低い職業をも受容せざる得ない社会構造にある。未だ大企業優遇型の日本においては、他の先進国と異なり、デフレの恩恵を受けた国民消費活動の活性化などは期待できない。

日本経済が直面しているデフレは、「消費の無気力化」とも言える、一部の富裕層を除く、多くの国民が人生に夢を持てない「生活防衛」的な日々を送っている。購買意欲そのものが喪失され、産業の空洞化ならぬ「需要の空洞化」が起こっている。

<奪われる機会の平等と、続く業界支配>

戦後、日本が経済新興国であった時代から半世紀以上が過ぎた。この間、多くの産業・行政分野において法整備が大幅に遅れる一方、政府・国家権力と関係の深い企業、業界を保護する排他的な規制維持が日本経済を支配して来た。

過去5年程はそれなりの変化、改革も見られるかもしれないが、JALNTTに代表される航空、通信業や、東電、東京ガスに代表されるエネルギー産業、さらに放送業界などは規制緩和と改革が大幅に遅れている。医療や農業などの分野については鎖国状態にある。

経済運営を担当する政権は、官僚や特殊法人、天下りを受け入れる企業、業界を厚遇する一方で、国民生活を犠牲にする経済体制を敷いている。

強力な規制が長期間支配する国においては、国民はその慢性的な「アンフェアさ」を受容してしまう傾向にある。それを受容せざるを得ない社会構造の中で育ったからだ。デフレによる「社会の安定」が得られるわけでもなく、政権与党(旧政権)によって国民は資産(価値)を奪われ、減給・減収を強いられている。

<日本のソブリン・リスク>

業界団体が集票し、ほぼその範囲内でのみ政治責任を担う日本の政党政治と、より広範囲な政治責任を担う中国の体制とを比較するべきではないかもしれないが、中国では発展のため、地域政府に個人の不動産が奪われることがあるらしい。高度成長期下の日本における「強制立退き」が彷彿される。

しかしその中国でさえ、過去20年間、多くの個人の資産およびその価値は、倍、数十、数百倍増となっている。また同じ時期、欧米豪州の政権担当は国民資産を数倍増している。

国民の財産を守り、将来の希望を膨らませると言う役目を自ら買って出た政治家の責任は問われることがないまま、憲法で保障される「個人の財産権」を侵害するような政治が20年近く続いている。似たようなことが続いていた戦前同様、この国の先細りのソブリンリスクを意識せざる得ない状況が続いてる。

2010年1月28日

G2 米国の狙いは..

G2」結成に向け、動きが活発化している。米国の国際的影響力が減少していく一方、今後長期間に渡り、中国の国際的影響力が増加することを、米国が一番理解していることの表れかもしれない。

米国首脳陣はこう考えたのかもしれない。「中国はフランス以上に自国文化に対するプライドが高く、フランス以上に国際的影響力もある。よって今後とも、フランス以上に米英の思い通りならないことは明白だ。仮に米国が、現在の国際社会での地位を維持することができなくなった場合、そして中国にその座を奪われた場合、国際社会に対し、米国が中国をライバル視する姿を見せるより、米中は近い関係にあると見られた方がいい。それには『G2』のような特別な関係が必要だ。逆に将来に渡り、米中の国際社会での立場が逆転することがなく、さらに中国が立場を弱めたり、仮に何らかの形で暴走するようなことがあれば、その時はG2など解消してしまえばいいだ」と。

日本のバブル経済崩壊直後、まだ「BRICs」と言う言葉も耳にすることがなかった頃、日本の対中国政策への提案として、私が周囲に主張していたことを思い出す。「日本は中国に対する影響力が残るうちに、中国での何らの権益が残るうちに、中国と対等かつ親密な関係構築し、今から中国での権益を育てるべきだ。日本の経済力と科学技術を餌に、無理難題な権益をも構築可能だろう」と。

当時、大方の反応は、「なぜ日本が中国と対等な関係を持つ必要があるのか」や、「そもそも中国がなくても日本は困らない」と言ったものであった。当時の日本は先進の欧米こそが、日本が追いかける姿として捉えており、それにやっと追い付いたばかりなのに、「振り返っても見えないような国のことは考える必要ない」と言った社会の風潮であった。それもそのはず、90年代初頭の日本はバブル経済の余韻たっぷりの時代。政権自民党などは「景気後退入り」すら認めていなかった時代である。世界中どこへ行っても「日本人は金持ち」ともてはやされた時代であった。

正直、当時はこんなに早く、中国が現在の「地位」を得るとは思っていなかった。しかしながら米国での生活で、現地友人らとの関係からみる日本は、あまりに脆弱な国家に映った。社会、経済、政治、国家発展そのものすら、欧米のそれとは比較にならないほど脆弱な構造で成立っている。それはまさに「砂の城」に見えた。

一方で中国は、13億の人口と、強固な一党独裁政治力。将来的な経済発展が声高に言われ、この両者を見た時、そうあまり遠くない将来、「気が付いてみたら立場が逆転していた」なんてことも十分にあり得ると感じていた。

多くの日本人は今も、日本と中国の国際的な立場が「逆転」しているとは思っていないかもしれない。しかしそう思っているのは、やはり日本人だけかもしれない。

2010年1月24日

日航破綻 「もたれ合い」は合法合憲か...

「政官業のもたれ合い」と「行政の無駄遣い」。これは社会問題に留まらず、未だ日本の民主性を問うべき大きな問題。

平等な権利を担保するのが民主主義社会の基礎的理念。そしてその社会を経済的に発展させるのが資本主義であるとするならば、日本の国家構造は一体何主義に属するのだろうか。

各省庁、特殊法人、公益法人は消費者から税、利用料を徴収している。役所の印紙税などは元より、ETC設置時に徴収される500円に至るまで、国民生活の細部に渡りその触手が伸びている。これらは一体何に使われているのだろうか。その使途が最後の1円に至るまで公表されることは決してない。

問題はこれらの金が、国民が選んでもいない国家公務員、官僚によって、彼らが所属する組織の為にほぼフリーハンドに使用されていることである。これは日本国が民主主義でない決定的な事例。このような国家構造を持つ国は先進民主国中、日本だけである。

さらに階級が存在しないはずの日本社会に、平等な人権保証を代表とも言うべき社会保障、取り分け年金や医療保険に、事実上大きな格差が存在する。米国のように自己責任型の社会保障でもなく、北欧のように手厚い高福祉型の社会でもない日本の年金制度では、法律で全国民の加入を強制しながらも、医師年金、厚生年金、国民年金、共済年金、議員年金などと、個々人の将来保証に格差を設けている。まるで士農工商、江戸時代さながらである。これを身分差別と言わずに何と呼ぶのだろうか。

日航の破綻は、行政が国民から直接徴収し、その金を自らの組織と息のかかった企業、業界を投入し、国家国民を金づるに来た図式の代表例である。まさに日本国が「官僚社会主義」であることを象徴的に裏付けている。この悪しき習慣は、日本史上、恐らく一度も断たれることなく今日に至っていることではないだろうか。

メディアなどでも頻繁に報道され、社会的に認識されていながらも、そこに違憲性・違法性がなかったのか詳細に検証し、国民に対し潔白を証明する動きが全くみられない。破綻企業の株主が責任を取ることは当然のことであり、今回の日航破綻についても例外ではないが、それ以前にもっと重要な部分で「精算」すべきことがあるはずである。

2010年1月16日

日航 再建も無責任か...

今回の日航再建計画では、同社に融資し利ざやを稼ごうとした銀行や、株主になることで株主優待を受けつつ日航をひいきにして来た利用客、純粋に出資またはキャピタルゲイン狙いの投資家が、「資産喪失」と言う形で責任を取ることになる。通常の破産であればこうした形で引責することは当然であるが、今回の日航の破産についてもそれでいいのか疑問だ。

通常であれば機構は、不採算事業を認定し、人員と共にそれを切り捨て、スリム化を図ることで経営再建するという道筋を立てる。しかしJALは国が強く関与し、国費を投じて支援してきた企業である。経営再建だけを目指した計画であっては、投じた国費がどこに「消えた」のかを国民は知ることができない。「日航破産のメカニズム」を公表せず、国費喪失の説明を省いてただひたすら経営再建すればよいというものではない。

機構は来年度にも黒字転換し、その後の再上場も計画している。100%政府(国民)が株主であれば結構なことであるが、再上場以前に新生日航株を新規に取得する特別待遇者があってはならない。どうしても新規に出資者を必要とするのならば、現在の赤字状態から出資したいと言う個人投資家を第一に公募すべきである。裏で一部の人間だけが特権を与えられ、巨額の国費投入と税制優遇を受ける「金の卵」企業に投資するなどということが決してあってはならない

かつて日本の航空市場を独占し、殿様商売をして来た日本航空。全日空の国際線参入の際も、日航や政府関係者による新規参入の妨害工作がうわさされたが、これまで業界と行政には「不正と癒着」が本当になかったのか、それが今回の破綻の原因とはならなかったのか、なっていたとすれば誰がどのように責任を取るのかが、機構に求められる最重要作業ではないだろうか。

2010年1月14日

日本市場 2010年の奇跡

商品相場の下落とドル円上昇の頭打ち。企業が不況慣れしていない欧米市場で雲が晴れない中、中国もここへきてより鮮明に金融引締めに舵を切り始めている。

またブラジルも大統領選を控え、同国への投資ウェイトを大きく傾注できない中、2010年は日本市場が注目されるかもしれない。

環境分野での技術力は元より、不況慣れした日本企業の底強さが見直される年となることを期待したい。