2010年1月29日

Japan, the Sovereign Risk

<国家経済運営能力>

デフレが長期化している。デフレは国民資産を目減りさせ、消費活動を抑制する。この間、世界経済は大きく伸長した。日本と先進国との間では生活水準格差が拡大し、逆に新興国との間ではその差が大きく縮小した。こうした状況が20年もの間続いている。デフレかリフレかはさておき、政府の「国家経済運営能力」が問われている。

リーマンショック以前、首都圏は一時的に「悪いインフレ状態」にあったと言える。一部の商業地はバブル期以上の価格で取引され、「億ション」がよく売れた。世界的な資源需給のひっ迫から商品価格が高騰し、同時に人材不足も深刻化した。それまでのデフレ懸念など吹き飛んでしまうかのような変わりようであった。一方で貧困層、ワーキングプアと呼ばれる層が急速に増加し、いわゆる二極分化がより顕著になった。2003年からの景気回復時には、まさにそんな悪いインフレが表面化し始めた。

わずかな期間で事態は一変した。2008年秋のリーマンショック以降、それまでとは全く違った経済環境となった。デフレが再開、加速し、再び「就職氷河期」も言われ始めている。このように短期間に物価や雇用情勢が乱高下を繰り返す日本経済は、「物価安定」を保つことのできない構造に陥っている。

<生活防衛と消費の無気力化>

いわゆる「資本主義社会」において、デフレ社会は非効率な経済活動を余儀なくされる。商売をしようにも買手が減少する一方で、事業主はまともな利益の出る水準で商品を売ることができない。利益効率の最大化を追求する資本主義が成立していない。

政府、メディアの国民へのスリコミとは裏腹に、欧州との比較において、日本の生活コストに対する社会保障は極端に低い。国民は節約買い(或いは安物買い)に走り、結果、企業収益が低下し、失業率が上昇している。人生に「やり甲斐」を得られない質の低い職業をも受容せざる得ない社会構造にある。未だ大企業優遇型の日本においては、他の先進国と異なり、デフレの恩恵を受けた国民消費活動の活性化などは期待できない。

日本経済が直面しているデフレは、「消費の無気力化」とも言える、一部の富裕層を除く、多くの国民が人生に夢を持てない「生活防衛」的な日々を送っている。購買意欲そのものが喪失され、産業の空洞化ならぬ「需要の空洞化」が起こっている。

<奪われる機会の平等と、続く業界支配>

戦後、日本が経済新興国であった時代から半世紀以上が過ぎた。この間、多くの産業・行政分野において法整備が大幅に遅れる一方、政府・国家権力と関係の深い企業、業界を保護する排他的な規制維持が日本経済を支配して来た。

過去5年程はそれなりの変化、改革も見られるかもしれないが、JALNTTに代表される航空、通信業や、東電、東京ガスに代表されるエネルギー産業、さらに放送業界などは規制緩和と改革が大幅に遅れている。医療や農業などの分野については鎖国状態にある。

経済運営を担当する政権は、官僚や特殊法人、天下りを受け入れる企業、業界を厚遇する一方で、国民生活を犠牲にする経済体制を敷いている。

強力な規制が長期間支配する国においては、国民はその慢性的な「アンフェアさ」を受容してしまう傾向にある。それを受容せざるを得ない社会構造の中で育ったからだ。デフレによる「社会の安定」が得られるわけでもなく、政権与党(旧政権)によって国民は資産(価値)を奪われ、減給・減収を強いられている。

<日本のソブリン・リスク>

業界団体が集票し、ほぼその範囲内でのみ政治責任を担う日本の政党政治と、より広範囲な政治責任を担う中国の体制とを比較するべきではないかもしれないが、中国では発展のため、地域政府に個人の不動産が奪われることがあるらしい。高度成長期下の日本における「強制立退き」が彷彿される。

しかしその中国でさえ、過去20年間、多くの個人の資産およびその価値は、倍、数十、数百倍増となっている。また同じ時期、欧米豪州の政権担当は国民資産を数倍増している。

国民の財産を守り、将来の希望を膨らませると言う役目を自ら買って出た政治家の責任は問われることがないまま、憲法で保障される「個人の財産権」を侵害するような政治が20年近く続いている。似たようなことが続いていた戦前同様、この国の先細りのソブリンリスクを意識せざる得ない状況が続いてる。