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2012年11月6日

「和の国」が持つ全周辺国との不仲

■日本の戦後史は「神聖」?

中・韓国への対抗心をのぞかせる日本のメディア。政府を肩代り、国民の愛国心を煽る役を買って出ている。ここまで来ると新聞と言うより、タブロイド紙や個人のブログといった印象。極めて右寄りな投稿も多い。


今回の日中・日韓問題では、金型を当てたような全く同じ論調しかメディアに登場しない。「反日感情は不当、抱くほうが悪」一色である。「中韓政府が反日を利用している」とメディアはしきりに伝えるも、そもそも何故それ事態が可能なのか、反日感情の発生源、その経緯を掘り下げ論ずることはない


日本はこれだけの経済大国、高就学、本来自由が保障されている国家でありながら、歴史認識とその検証を行うことをタブー視し、何か神聖なもののように扱ってきた。それを疑問視する論調は決して表には出てこない不自然を「自然」と扱ってきた。客観的な立場で見ることが可能な今世紀になっても、戦前・戦後を再検証することは「国家への冒涜」という意識がある。

これは戦前からの政府・大企業・メディア支配が今に残っていることの現れでもあり、米国保護による最大の利点でもある。米国は自国利益を優先し、日本は米国の経済的、軍事的「保護管轄区」といった姿勢を崩していない。戦後、自らの手腕を披露する形で拙速に行った日本の民主化とその内容に、正当性を与え続けている。


■日独教育水準の差


これにより「謝罪・賠償で全て解決済である」と考えるようになってしまった日本と、それ以上に被害国に対する心のケア、トラウマケアが最重要であると考えるドイツには大きな歴史認識の差がある。それは両国の隣国間との発展的な未来構築にも大きな違いを与えている


「我々は過去の過ちを悔んでいる、でも今はその反省から完全に生れ変わったのだ」ということを発し続ける努力を怠れば、これまでの過去の償いが無駄になる。さらにこれを忘れた時点で「結局、我々は変われなかった」と発っしてしまうことになる。先人とは言え、彼らが犯した過ちを学校で教えて悪いはずがない。「無知こそ悪」とも言う。数千年続いたアジア史を一度の過ちで「無」にすべきでない。


「民主教育」が教育の基礎となっている欧米では、相手の心情を察する思考力、相手の立場で考える道徳観の習得を非常に重要視している。犯罪被害にあった人々に対する「心のケア」の重要性についても、このような教育方針、道徳観を持つ社会の中で生まれている。これは日本で「トラウマ」という言葉が紹介される数十年も前に始まっている。


民主教育では、自らの利己的な行動が、他人の損失となって表面化することのアンフェアさを教えている。さらに自らの行いによって他人を傷つけること、その事実を軽視し続けることの「罪」を教えている。これらは日米欧の教育水準の差が鮮明に映る一面でもある。


20世紀中東不和、21世紀の日・中・韓・北」不和は米国覇権の温床


世界で言われている米国の覇権主義は、戦後日本に始まる米軍駐留を今に残している。しかしこの米軍駐留当初の、そして今も残る重要な責務は「監視と抑制」である。もちろんこれは中国や北朝鮮に対するものではない。それは中国の核保有、北朝鮮のテポドン日本上空横断に対する米国の対応を見ることで理解できる。米国からは言葉による懸念表明以上のものはない。沖縄や横田基地等、日本の陸海空に広がる米国支配を見ても、世界一多くの国際監視カメラが設置されている日本の核利用、原発を見ても、その主な監視対象が「対中・対北朝鮮」などでないことは明らかである。


日本の支配層が醸し出す日中韓北の不和が、アジア圏における米国覇権の温床になっている。いわゆる「隣国脅威」という理由がある限り、日本に対する米国の影響力は緩むことはない。すなわち日本への軍事的、領域的占領が解かれることはない。これらを踏まえ、「脱亜入欧」から150年が経過する今、日本はそれを振返り総括すべきである。これは今後とも、日本がアジアにおける地位を維持するための重要なプロセスでもある。


欧米にとって戦後日本はほぼ唯一のアジアであった。しかし今は違う。韓国、台湾、中国等の復活、タイ、マレーシア、インドネシア人気など、世界は再びアジアで溢れ始めている。欧米人は自分たちをフォローするだけの国にいずれ興味を示さなくなる。アイデンティティを尊重し合える関係を持たずして、持続可能な異文化間関係は存在しない。一皮剥けば日米関係にもそれが存在しないことに気付く。


関連ページ:

2012年8月23日

消費税25%でも国民理解は得られる 4/4 ― ギブ&「ゲット」

■課税対象の簡素化と税還付、そして社会保障番号

[上画像は政府サイトより]
高い消費税を課すことは、低所得者をより苦しめることになるとの重要な課題もある。そこで欧米では、以前から項目別に異なる税率を課してきた。よく言われるのが、ドイツでは、ハンバーガーを店内で食べるのとテイクアウトでは税率が異なる。外出中の消費者はドライブスルーでハンバーガーを買い、そのまま駐車場に回って車内で食べることになる。

このような窮屈さを強いられる事実は同税制の大きな欠陥であると言える。全ての消費に一律に課税すれば、当然このような矛盾は解消され、課税体系をできるだけ簡素化することで行政の関与も減らすこともできる。複雑であればあるほど行政は関与を深め、結果、国民の監視がおろそかになる。

低所得者へのサポートは支払済み消費税の還付によって行うが、これには全国内人に、現在マイナンバー制度として議論されている社会保障番号が必要となる。既に先行する韓国などでは、各商店に端末が設置され、消費者は商品購入の際に社会保障番号(住民登録番号)情報のある専用カードを使用し、還付に必要な情報のやり取りをオートメーション化している。またこれは脱税防止に欠かせない制度でもある。日本が参考にできる部分も少なくない。

■国外消費分の還付

「25%」という無視できない税率でも、外国人観光客を減らさず、彼らのみやげ消費を維持するためには、国外消費を目的とした買物への免税または減税措置が必要である。これまでのように輸出業者だけに留まらず、商店が個人に対して販売する際にも、国外使用の商品に対し免税措置が必要である。国内人であれば社会保障カードを利用し、一時滞在の訪問客であれば、国内人の社会保障カードに代わるIDカードを入国時に発行する。商品購入の際にそれを端末に通すことで、還付に必要なデータをやり取りする。空港に窓口を設け、出国の際に買物情報と商品を照合し税還付する。また別送品に関しては、認定配送業者が別送を保証する証明書を発行し対応する。これらの作業には、マイクロチップや二次元バーコードなどが便利である。

■ハードランディングは機能するか

ハードランディングとなる国家破綻、外部救済者介入によるドラスティックな構造改革を個人的には望むところである。根底からの大改革なしには、日本はその持てる能力を発揮できず、いずれまた権益に押し潰されてしまう道を辿ると考えるからである。しかし救済者による介入も完全ではない。現在の韓国を見てもそうであるように、財閥の解体など、一度はIMF介入による改革も実行されたものの、やはり中途半端な形での介入に留まっていたことが今見て取れる。日本のGHQによる介入もしかりである。新旧利権が形を変えプレーヤーを変え、結局は再構築されるのである。現在の主義、体制の下でできることは限られている証しでもある。

■ギブ・アンド・「ゲット」、とにかくやってみる

既得権は権力である。その権力を奪うことは容易ではない。彼らもそれを守るために人生をかけている。利権構造改革に挑むことは重要であるが、それには無限の努力と、気の遠くなる程の時間を必要とする。しかし現在の国の財務状況はそれを許す程の時間を持っていない。いつの日か日本国債が売られ、急激な金利上昇に見舞われればまさに一網打尽となる。これは突然やってくる。これを一時回避するための消費税率引上げ、避けては通れないところまで来ている。ならば国民は交換条件を国に突き付けることを怠ってはならない。

消費税25%と低所得者への還付。所得税とインフラ使用コストの見直し。そして一人10万、夫婦で20万円の生涯保障。医療、教育費の無料化など。皆が共に具体的な改革案を支持し、積極的に訴えかければ、国はそれらを無視できないことを知るはずである。それには国が増税をと願っている今がより効果的である。

2012年8月22日

消費税25%でも国民理解は得られる 3/4 ― 「安心」は消費の原動力


■消費税25%

生涯保障と引き換えであっても消費税25%は大きい。現在、揮発油税込で1万円のガソリン代が10,500円のところ、25%の税率では12,500円にもなってしまう。現在、酒税込5千円のワインが5,250円、消費税アップで6,250円にまで跳ね上がってしまう。しかしこれらは高収入者に対する話である。国内人の多くは支払済み消費税の還付を受けることができる。私の提案では、現在5,250円となるこのワインを、年収200万円未満の納税者は、還付により実質無税の5,000円で購入することができ、同300万円未満なら現在と同じ5,250円、同400万円未満で6,125円、500万円以上は還付なしの6,250円となる。基本的に、低収入者はいくら消費しても無税または減税の対象となるが、還付基準は収入だけに留まらず、保有資産に応じた還付を考慮すべきである。もちろん、競馬やパチンコ、宝くじ等のギャンブル消費へは、その所得に限らず税還付などあるべきではない。

一昨年(2010年)の年齢別人口動態を見ると、65歳以上の人口が29,367,152人となっている。この数を参考に全員への年金支給を計算すると、最高、年間約35兆円が必要となる。現在の給付年49兆円より安くあがる。35兆円に足る消費税率は1417%と試算される。現行の5%と合わせると20%前後の消費税率となる。導入後に受給者が増加すれば、その時点で支給額を減らすか、再び税率を上げることになる。これらを数年毎に国民的議論を交えることを法制化する。

私はこの年金を生涯保障と位置付けている。例えば年に数千万円も稼ぐ老人に対し、国が金銭的な生涯保障を与える必要はないであろう。このような富裕層は、その利益を稼ぎ出すまでに国が提供するサービス、道路等のインフラを直接的、間接的に人一倍使用しているのである。国民負担となる生涯保障は遠慮して頂き、少しでも予算(消費税率)を減らすことに貢献して頂きたい。

■高い消費税率が景気を冷やすという議論

一般的に、高い消費税率は国内消費を減少させ、景気に悪影響を及ぼすとされる。「普通」に考えればこれは事実かもしれない。しかし普通に考える必要はない。これまでにはなかった低収入者への還付もあれば、全高齢者への生涯保障もあるのである。

現在、国内人の大半を占める低収入層は、月に数千円でも節約しようと日々神経を尖らせている。無理もない、一向に増えない収入と、老後保障に不安を抱いているのだから。しかし現在の価値で10万円という年金支給が、老後に保証されるとあらば、生活に必要な買物をするのに今ほど神経を使わなくてもよいはずである。消費行動はより安定的なものとなり、人々は安心、安寧な生活を営むことができるようになる。みながこのような生活を送れるようになれば、そのカテゴリーでの消費に厚みが増し、供給側はバリュエーションを増やすことができる。生活必需品またはそれに準ずる品物が充実することは、日々の小さな豊かさを得ることにつながる。ブランド品で着飾り、高級車を乗り回す生活など、多くの人が望んでいるわけではない。それよりも住まいの住環境、日々の生活をより落ち着いた形で充実させたいのである。

日本より遥かに高い税率も、高福祉を誇る北欧では、消費が大きく落ち込んでいるわけではない。それどこか、みな高福祉であることに安心し、充実した生活を送っている。消費税わずか5%の日本の方が、余程、緊迫した消費生活を強いられている。高い消費税率だけを持ち出し、経済を冷やすだけという議論は、無責任でやる気のない行政と、一部の強欲な企業経営者らの言葉である。実際には基礎年金の引上げで、年金への企業負担は大幅に減少する。実質、企業への補助金とさえなりうる。

■「人口減少高齢化社会」が進むべき道

この消費税率引上げによって税収が増加し、年金等を支給した後に残るものについては、いくつかの欧州国同様、医療・教育に還元したい。大卒までの無料化や、健康保険料の無料化、できれば医療費全体の無料化を実現したい。

人口減少と高齢化により、これまでの構造のままでは国の収入は減る一方である。これを補うために国民的投資ファンドを設立し、日本国内はもとより、世界に向けて投資を行う。民間の投資信託のように、投資および資産状況をオンラインで日々公開する。高齢化社会においては、国民の体力に頼った労働を期待するだけでは、国民生活に必要な資金は稼ぎきれない。先進国には、グローバル社会における知恵の蓄積があるはずである。投資先の企業、不動産等に頑張ってもらい、そこから配当を得て国民を潤すことを考えるべきである。日本が資源国でない*とうたうのなら尚更である。

2012年8月21日

消費税25%でも国民理解は得られる 2/4 ― 夫婦20万円の生涯保障で老後格差をなくす

■年金基金、業界の支配力、そして老後格差

会社員、自営業者、政治家、行政職員、医師、弁護士等、日本ではみな老後保障が異なっている。共産主義のような「単一性」を望みはしないが、その職業に着いたからといって、特別な老後が確立されてしまうような「格差」社会を改めなくてはならない。業界団体は、自らの業界に所属する者とその家族らを囲い込んでいる。業界の権利を守り、あわよくば利権を勝ち取ろうとする力学が働くことは自然である。医師会など政治行政に密接に関わっている団体もある。メディア業界などは影響力を通り越し「支配力」に近いものを振りかざしている。某新聞社グループのメディア王などその典型である。

これらの業界団体は私的年金をうたい、業界メンバーだけを対象にした年金基金を運用している。もちろん各業界が持つ利権、影響力をフルに活用してのことである。これは年金基金というよりはむしろ、利権を動かす基盤となっている。さらに、基金の一部をヘッジファンドに運用させている。ギャンブル性の強いデイトレード、短期売買などが日々行われている。

当然、基金は自らの業界に恩恵をもたらす企業への投資をひいきにする。これは我が国の資本主義に歪みを生じさせ、政治行政を偏った方向に動かす力にもなっている。このようなことが続く限り、悪い意味での天下り行為はなくならず、民主国としてのフェアな社会など構築されるはずもなく、経済格差、老後格差はその度合いを増すのである。よく言う縦割り行政と、業界による利権の囲込みは協業状態にあり、国内に「ブロック経済」を生み出している。富の固定化が進む現在、そのどこにも所属しない一般市民は機会平等を奪われ疲弊していくのである。

業界が自らの権利を守ろうと団結することが悪いと言っているのではない。その団結をもとに、年金運用までする必要はないということである。年金基金は日本経済を動かし得る程の巨額さである。よってその基金への加盟は、全国内人*へ平等に開かれたものでなくてはならない。誰もが利用可能な年金基金とは、市中で購入することのできるファンド形式の運用であり、政府ができることは既存年金基金の解散、代わって所得控除の対象となるファンドを積極的に認定することである。業界団体のメンバーらは、各々の自由な意思でファンドを選択すればよい。ある業界に所属するからといって、全メンバーがその業界に将来性を見出しているとも限らないのだから。

* 国内人: ここでは日本国民及び一定期間以上、日本国内に納税地を置く永住者と定義。

■夫婦20万円の生涯保障、掛金返還、そして自己運用の基本

夫婦で月20万円あれば何とか生活できる。一人10万円ずつ、夫婦で20万円の年金が保証されることで、多くの国内人は「十分ではないが、何とかなる」と感じることができるはずである。もちろんこの年金は消費税収より支払われる。夫婦20万円で足りない部分は、返還される支払済み保険料で補う。近く年金受給が始まる方々は、これまでに2540年程度掛金を納めている。この個人資産は今後、民間のファンドなどを通じ個々で運用する。国に任せ、この先いつ減額または支給自体を止められたり、それまでに支払った保険料が消えてなくなるかもしれない現行のシステムにすがって余生を送るわけにはいかない。

忘れてはならないのは、国内人はみな、自らが日本経済を動かしているコアメンバーであるということ。自らの資産運用、資産維持のため、本来もっと積極的に経済活動へ参加すべきである。投資家のような「金融取引」をする必要はないが、ウェッブサーチや、直接金融機関等へ足を運ぶだけでも、数時間でファンドによる資産運用のための有用な知識が得られる。それでもなお、経済活動へ直接的な参加を望まないのであれば、銀行預金の低利回りに甘んじた生活を覚悟すればよい。「リスクフリーで高利回り」など本来ないのである。

「お上」が世話をしてくれた時代をいつまでも懐かしんではいられない。日本が西側経済の「末っ子」だった時代は当の昔に過ぎ去っている。何でも教えてくれた欧米は、日本を肩を並べる(部分的にはそれ以上の)大人だと思っている。欧米が日本に対して脅威を抱き、それを受け入れて来たのと同様、日本も新興国に対する脅威を受け入れ、それを克服しなくてならない。それには国任せの経済ではなく、個々人が金融、経済に対する関心を抱き、知識を深め、例えわずかであっても、より直接的な国家経済への参加を意識することが重要である。

【ブログ版】 消費税25%でも国民理解は得られる 1/4 Introduction

■税は簡素に、複雑な税構造は行政の介入を招きやすい

税とは本来簡素でなくてはならない。複雑になればなるほど国民理解が得られにくい。個人的には全ての税を「消費税への一本化と、低所得者への還付」で完結すると考えているが、その実現には、それこそ日本の全既得権と戦う覚悟が必要である。国民がコントロールすることのできない権益、目的税、特別会計枠などは非常に厄介な存在である。

日本の通信・水道光熱費は他国に比べて非常に高い。国民生活の基盤となるインフラ使用料が高額なことは大きな問題である。長年、国と蜜月な関係にあるインフラ業界は、新興国にも勝る排他的な規制で守られている。利益率の高いビジネスモデルを維持するため、消費者に高い負担を求めている。そして同時に、これらの企業は膨大な借金も抱えている。「寡占的事業」が、膨大な社債発行を許し、慢性的な浪費体質に陥っている。使用料を下げようにも、今からでは手のつけようのない状態に陥っている。日本は低所得層への課税が緩いと言われるが、高額なインフラ使用料を前に、国は高い税率を低所得者に課すことができないのが実情である。

■業界トップ企業、表向きは社会貢献、裏では強力な政治介入

国はなおも企業業績を第一に考えている。「国が企業を育て、企業が国民生活を豊かにする」と、高度成長期の構図から抜け出せないでいる。この先も莫大な予算を使い、企業への優遇策を整備し続け、業績向上、税収増を望むのだろうか。しかし思惑どおりに事が運んだとしたとしても、それが実るまでにどれだけの年月を要するだろうか。仮に企業業績が上がったとして、それが社員、社会に還元されるのはさらに何年先になるだろうか。そもそも、日本人雇用を減らす一方で外国人雇用を増やす企業が急増する中、業績向上による還元が、どれだけ日本国内に循環するだろうか。そして企業は生産拠点の国外移転を止めるだろうか。

「国家一丸となって他国に打ち勝とう」を推進する時代はとうの昔に過ぎ去っている。本来であれば、日本も各地方政府が地域主権を持つ時代にあるはずである。住民が目の届く地域政府が、よく知る地域の特色を活かした政策、経済活動を個々に推進する時代にある。東京に本社を持った企業だけが世界で認められているわけではない。地方にも世界で活躍する優秀な企業、事業主が数多く存在する。地方へ権限委譲し、技術・金融立国であるスイスのような国(または州)を複数持てばいい。最終的に消費税は、地方自らが税率を考え、消費者を誘致して得ることのできる「地方の財源」でなくてはならない。

しかし霞ヶ関が持つ権限の委譲、地方主権の確立を待っていては、現在政府が拙速に押し進める消費増税に間に合わない。さらに、これらの改革を実行するに必要な時間と体力が、我々には残されているだろうか。ギリシャのように国民に知らされていない部分で、国は待ったなしの極限状態にまで来ている可能性もある。毎年、借金で借金を返す現在の国の財務状況も、ついには増税で借金を返さなくてはならないところまで来ているのではないか。

そこで当面の時間稼ぎ、経済破綻を避けるため議論されるのが消費税率の引上げ議論である。実際にどこまで急を要するのか、そもそも本当に引上げが必要なのかと言いたくなるが、これまでがそうであったように、国は引き上げるときは何が何でも引き上げる。ここではそれをどう阻止するかではなく、結局引き上げられるのなら、国民は何を引換えに勝ち取るべきかを考えたい。

■とにかく避けるべきは国民泣き寝入りの増税

一番避けなくてならないのは、国民が政府、行政、メディアのいいなりになり、なし崩しで増税を受け入れる羽目になること。年金等の生涯保障が明確にならないまま、増税だけが行われるようなことが決してあってはならない。これは国民に得るものがないだけでなく、経済の悪化、富の固定化が進行し、落ちるところまで落ちての国家破綻となりなねない。このとき高級官僚、インフラ企業役員を含む富裕層の資産は海外にあり、彼らは痛みを被るどころか、日本の没落によって相対的な資産価値を膨らませることになる。そして日本が落ちるところまで落ちて再び買い占めるのである。彼らは後の日本復活によって膨大な利益を得ることとなり、国への影響力、支配力を新たに強化してゆくのである。

この支配層ともいえる現在の既得権者が、ほぼリスクフリーで(法整備の遅れを突いて、いや、法整備を遅らせて)、富や機会の平等を国民から奪う国家構造であってはならない。今回の増税で泣き寝入りは禁物である。来る時に備える意味においても、国民は増税と引き換えに必ずや最低限の安心を勝ち取らなくてならない。

2012年3月4日

維新ニッポン!

「地方を変える、日本を変える」、そのどちらの場合においても「地方主権」なくして成し得ない。社会の成熟化が言われ、少子高齢化が進む現在の日本において、中央集権体制によるメリットは急速に減少している。過去から続く利権、既得権を断ち、国民へと再分配しなくてはならない。そして人々の幸福を考えるとき、地方本来の魅力と活力を取り戻すことが重要となる。大きくこれら二つの点において、日本は今まさに「地方力」を必要としている。

■国民の機会平等

これまでの政治に対する責任は、国民側の選択責任に帰する。しかしその国民の選択能力は、社会に影響を受け形成される。これが示すところは日本の民主教育の欠如と、地方の特性を切り捨て画一化された政治、経済、そして教育体制にあると言える。他の先進民主国と異なり、日本における民主化は内から始まった「民主革命」ではない。明治維新、戦後新体制とも、外国政府によって改革を迫られ、一部のメンバーらによって人工的に造られた制度的民主主義なのである。

この持ち込んだ日本の民主資本主義は、今も一部のメンバーに膨大な経済的恩恵をもたらしている。それらは支配層となって既得権を生み、その利権構造は形を変え、プレイヤーを替え、国民生活を疲弊させている。富と権力は集中、固定化し、国民の機会平等を奪い続けている。リスクとリターンの関係がアンバランスな形で存在し、既得権者らは低いリスクで大きなリターンを得、持たないものはハイリスク、ローリターンな競争を強いられている。民主国らしからぬ利権継承を断ち、国民が真の機会平等を手中にするには、何よりも現在の中央集権体制を変えなくてはならない。それなしに民主国としての日本に、持続性のある明るい未来が訪れることはない。

■歴史ある地方の魅力

失ってはならない地方の魅力と、人々の幸福について考えるとき、これまでの「全国あまねく発展」という政策は、本来バブル期の終焉とともに、大きく舵を切らなくてはならなかった。明治の挙国体制、昭和の高度成長、平成のバブル経済を経て成熟期を迎えている今、12千万という単位を一律に扱うことに、やはり大きな無理がある。日本国民は、既にある程度の豊かさを経験し、個人、小規模企業レベルにおいても世界で飛躍可能な知識と能力を獲得している。そのような国民の幸福、そして人生を一中央政府が計れるものではない。

地方の魅力、地方の幸福、それは地方自身が一番よく知っている。言語を始め、芸術、職人技、生活様式に至るあらゆるものに浸透している地方特有の文化は、日本本来の美しさだ。これからの日本は、地方が持つ価値観、歴史に裏付けられたアイデンティティが、あらゆる場面において体現可能な環境を創らなくてはならない。伝統とコミュニティを尊重し、地域住民がプライドを持って人生を営むことができるようにである。そしてこのことが地域の潜在能力を高め、地域経済の活力となり、理想的な地域、地方の発展につながってゆくのである。

■地方主権

最終的な形としてはやはり地方主権、中央には日本国という枠組みを留めるに必要最低限の機能を残し、その他全権を地方へ移転すべきである。日本は改憲なしに、国防等、結局は米国関与から完全に逃れることはできない。このように両国間が完全なる均衡関係にあるとは言えない環境下、中央政府に全権を置く現在の体制は、外交上の大きな「デメリット」を抱え続けることになる。日本に対し大きな影響力を有する国が、戦略的な方向性を持たない日本の中央政府と折衝に当たれば、これまでがそうであったように、地方市民の意向を切り捨てた政策に傾くことはそう難しい事ではない。

日本が西側諸国等にひいきにされた冷戦期や、隣国は後発国、共産国などといった甘い環境はとうの昔に過ぎ去った。数世紀、数千年に渡り、世界を股にかけてビジネスを営んできた中国やインドの復活を前に、日本はこれからも国家一丸となって輸出産業従事型国家を運営してゆくのか、各地方がその特性を活かした地方中心の国家に再構築するのか、あるいはその両方のいいところを折り合わせた国家構造であるのか、その選択をすべき時が来ている。そしてこの重要な選択は、今のままの中央政府が全国一元的に行うのではなく、市民の人生を責任ある形で見守ってゆくことのできる各地方政府が行うべきである。主権を持った地方政府は、その身近な地方市民に監視され、自由と責任、権利と義務の関係を曖昧なものにすることない民主政治、民主社会を確立しなくてはならない。

地方によってはドイツのような工業大国型社会を目指し、ある地方はスイスのような職人大国型社会を目指し、ある地方は観光、環境、農業を目指すなど、地方同士その特性を競うことで、日本は素晴らしく魅力的で、心底豊かな国になれると確信している。震災により壊滅的ダメ―ジを受けた東北の被災地へは、メモリアル的要素も含め首都機能移転を考えるべきである。

現在、残された時間の中で、比較的短期に中央の改革、すなわち利権改革を推し進めるには、これまでがそうであったように「外圧」が必要である。中央にとって一番近い「外」、それは地方である。また地方は日本の「内」でもある。まさに地方力こそが今必要な外圧であり、日本の内なる民主革命に他ならない。先進国として、非暴力かつ政治的に利権構造にメスを入れ、国家構造そのものを国民が望む形に変えることができたのなら、世界は日本の「チェンジ」に対する称賛を惜しまないことであろう。

2011年8月24日

首都移転― 安全かつ機能的、メモリアルな要素を持つ首都構築

■今こそ「譲り合い」の精神を

これまで私は「遷都するなら京都」と願ってきた。東京圏からは消えてしまいそうな日本の伝統とそのプライド保持を願ってのことである。

震災以降、ポツポツと耳にしていた福島への首都移転。今なら比較的容易に行えるのではないだろうか。

そもそもなぜ首都移転が言われるのか。よく言われるのが東京一極集中の回避や、東京の災害に対する脆弱性など。

首都移転で一番難しいのが、その移転先の選択と決定。これはオールニッポンでもめにもめ、挙句の果てには民主的でない力が働く懸念すらある。だから結局実現しない。しかし現在の日本国民の防災意識と、東北被災地への慈悲をもってすれば、一番の難関は最初から排除されているようなものである。今なら移転の重要性を丁寧に説明することで、国民並びに地権者から寛大な理解を得られずはず。本当の「譲り合い」はこういう時にこそ表れるもの。あとは国民の決意次第。

■機能的かつ安全で魅力的な首都を

米国ワシントンDCや豪州キャンベラのACTなどは、ほぼゼロから首都として都市計画されただけあり、他国の首都と比較して機能的かつ災害に強い、非常に安全性の高い首都となっている。このような首都を創造できる絶好の機会が今の日本にはある。先進国にとっては非常に珍しい機会でもある。そして何よりも、被災地への首都移転は、被災へのメモリアル的要素を未来永劫持ち続ける事ができる。

政府行政運営の大幅なコスト削減にもつながる。現在の永田町、霞が関では何かと費用がかかる。民間から借り上げている不動産等の賃料だけでも天文学的な額に違いない。それら全て必要なくなる。さらに中には移転に同意できず、自ら職を辞する職員も多数出てくるかもしれない。IT時代の今、発展途上期の人員数は必要ない。これも固定費の削減要因となる。また言うまでもなく、移転にあたり国所有の不動産全てを民間へ払い下げ、得た資金を首都移転および被災地の復興費用に充てることである。決して官僚の住宅や特殊法人に与えてはならない。

皇居は宮家の意向次第。国会議事堂は歴史的意味も含め、博物館などとして保存。石原氏が誇示するほどの実力を東京が本当に持っているのなら、首都機能などなくとも十分にその魅力を維持できるはずである。

2011年7月23日

衰えない影の支配権力 2

こんな時に増税とは何て愚策。国を商店に置き換えると分かりやすい。店員5名をもつ商店がある。大地震により店舗の半分が崩壊してしまった。どうやら店主は保険に入っていなかったらしい。

こんなとき皆さんが店主であったら、店舗の修理、商売の再開に向け、次のどの道を選択するだろうか、またすべきであろうか。

1. 銀行などからの借入れを起こす。
2. 店員より借り入れ、利子を付けて返済する。
3. あるだけの貯蓄をかき集めて使う。
4. 店員に負担させる(店員の給料から徴収する)。

大震災という有事。余程のワンマン店主でない限り、店員と相談して13のいずれかを民主的に決める。あり得ないのは「4」。これは「店主の救済」を第一に考えたやり方。「店主あっての店員」といった図式である。お考えの通り「復興税」なるものは、「先ずは政府行政を救済する」といったやり方。

日本の支配層は非常にタチが悪い。果実がなくなるまで搾り取って初めて気付くタイプ。いや、そうではない、「自分が取らなくても誰かが取る、だったら先に自分が取ってしまおう」という彼らの本質。日本ではこんなことが合法的にできてしまう。こんな民主国、他にあるだろうか。

自己関連日記: 「トップの影響力

衰えない影の支配権力 1

報道各紙が「首相、政権公約の見通し甘かった(と発言)」などと報じている。本当に「見通しが甘かった」ことが、政策等達成できない最大の理由なのだろうか。

ご存知の通り、国家は権力によって動いている。この権力が国民の総意に反して動けば、その分、国家の民主性は失われる。

フランス革命以降、欧米では「権力」は徐々に民の側に移ってきた。それは十分と言えるレベルではないであろうが、基本的な方向性は正しい。「基本的」としたのは、前世紀より拝金主義が席巻し始め、いわゆる「お上」とは違った別の権力が強さを増しているからである。

日本に目を向けると、「権力」が移る先は民ではなく、主に国と深いつながりのある組織、企業である。ここが欧米とは大きく異なる。外国から「日本株式会社」と呼ばれる実態である。

またメディアも、その最大使命の1つである「権力の監視」が、日本では機能していない。メディアが権力と共存関係にあるからだ。

「影の支配権力」。そんなものが存在すれば、それは民主国の大敵である。民主的に国家運営を進めることができないからだ。これは国民が大統領等、国家元首を選択することのできない日本において、国民生活が先進国並みに豊かになることはないと確信する部分でもある。

2011年7月9日

日替りランチ、いや「年替り総理」

外国人の友人らに尋ねられ、いつも答えに戸惑うのが日本の政治。日替わりならぬ、年替わりで交代する国のトップ。最近では月替わり、週替わりで閣僚が替る。

観光で来日する日本の内情をほとんど知らない外国人(友人の友人など)の中には、「年替り総理」が日本の制度であると考えている人もいる。サミット等、首脳会議などで日本だけが毎回新顔。

2011年7月2日

東電城崩壊によるパラダイムシフト

菅氏が首相の座に執着する意図がはっきりとしないものの、もし日本の電力事業を先進国並みに開放することができれば、それは日本の政治経済史に残る「偉業」となる。

電力や通信のようなインフラ事業は、世界中で最もうまみのあるビジネスの一つ。東電の「殿様商売」が継続不能とあらば、今、100年越しのパラダイムシフトが起ころうとしているかもしれない。

日本の既得権の固定化が大きな国民負担となって国家を疲弊させている。ここでの改革なしに、日本の長所を活かした国家の発展はない。

上客である東電をかばい、半ば国民騙しに加担して来たメディア。現在の菅降ろしは、未だ電力会社をひいきにする既得権者ら(反社会的勢力を含む)の思惑が働いている可能性も否めない。国民はこれに安易に乗せられることなく、厳しい目でプレイヤーを見つめ、賢明な選択をして頂きたいと願うばかりである。
  

2011年5月21日

Spin-Off & Rights Issue ― 制度としての投資家保護を 2

米国などでは子会社を分離独立させる際に、既存の株主価値を損なわない努力が強く求めらる。それにはスピンオフやスピンアウトといった方法を取るが、これは時に市場に好感されることも少なくない。

既存株主は、分離独立させる子会社の株式を受け取ることで自動的に両社の株主となる。よって既存株主は、この独立上場に値する「有望なビジネス」から得られる利益を(当然無償で)享受することができる。日本市場のように、大株主らの独断で、既存株主から社の有望なビジネスの利益を削ぎ取り、奪い去ることはない。

ビジネスの分離、子会社上場等により、親会社側は有望なビジネスを失うため、企業価値の低下、株価下落を招くことにつながる。しかしながら、既存株主らは子会社の株式を売却することで、親会社の価値低下分を補うことができる。

日本式の増資や子会社上場などは、資本主義の観点から本来あってはならないことである。現在の日本市場は、過去の成長期に黙っても外資が流入した環境にはない。日本市場から資本の流失が止らない現状は、日本の企業経営者の株主資本を軽視する姿勢を映し出していると言える。

2011年5月20日

Spin-Off & Rights Issue ― 制度としての投資家保護を 1

中国アリババが傘下アリペイの所有権を移転したと、12日ロイターなどが報じた。

記事では、大株主である米国ヤフーや日本のソフトバンクなどに対し、「事前の通告がなかった」と米国ヤフーは主張しているとのこと。そのソフトバンクも、自らの株主へは報告をしていない。

ブルームバーグなどは、グループの優良な子会社が分離されたことで、親会社アリババの企業価値低下を引き起こす懸念があるとも報じている(ブルームバーグ記事)。

ビジネスの分離移転が招く企業価値の低下。株主にの代償も支払わずこのようなことをすれば欧米では訴訟の対象となるが、日本では頻繁かつごく当然のこととして行われて来ている。

上場企業は子会社を作り、上場に値する有望なビジネスをその子会社に移転。後にその子会社を上場させ、同子会社の利益を新株主に移転する。それまで懸命に社をサポートしてきた既存株主は、得られるはずであった利益を第三者へ奪われるのである。

企業側は既存株主に対し、グループ規模拡大のメリットや、新ビジネスに対する資金調達の必要性を強調する。しかしながら上場メリット発生のメカニズムや、想定するメリットそのものを具体的な期限と数値をもって株主に説明することない。

当然のことながら、株主に対するこのような説明は非常に複雑な作業を伴うものである。そこでこうした労力を企業が省略できるよう、欧米ではスピンオフなどの制度が存在する。日本市場においてはそのどちらも省略され、既存株主は実質増資、希薄化に伴う株価下落(または上昇力抑制)を強いられている。

2011年5月14日

日本にリーダーは必要?

日本で良き指導者が育たない最大の理由は、日本が今も敗戦国であり、既に米国という強力な「リーダー」が存在するからである。そしてその事実から目をそむけようとする国家体制にも大きな問題がある。

敗戦がもたらした連合国による「占領」、これが意味することへの教育が十分にされないまま今に至っている。

米国が日本に有する既得権や同国との従属関係について、日本国民はあまりにもナイーブだ。日本はどこまで独立主権を貫けるのか、果たして本当に独立主権国家なのかなど、再認識があってしかるべきである。逆にここから目をそむけた状態では、自らのリーダーを苦しめ続けである。

政府マスコミの特別な関係も、日米従属関係の下にある。ちょうど王の下で臣下らが「シマ」を分かち合い、権力を用いて私腹を肥やし、民を欺く姿に似ている。これは自らが意思決定最高機関ではないか、国家を外敵から守る最終的な責任者でないために起こる無責任な行動。

国民がこのようなことに関心を持ち、「完全なる主権」を勝ち取ることなくしては、日本国のリーダーがリーダーとしての機能を果たせない以前に、果たす「機会がない」ままとなる。

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2011年4月13日

アーティストとプロの違い

一流のアーティストがベストセラー商品をデザインすることは稀だ。また優秀な科学者が起業し、大成功することも稀である。

政治も同様、素晴らしい政治理念と知識を備えただけの政治家では、後世を豊かにする一流の政治的結果を得ることは、やはり稀である。政治とは思想以前に、いかに他の権力者との調整が利くかが、最終的に政治的結果を得るものだからである。ここにアーティストしての思想家と、プロとしての政治家の差がある。

現在の日本において、そのような「政治力」を備えた政治家は皆無とであると言える。小沢氏はそれに近い存在であったかもしれないが、それもクリントン国務長官との面会を「忙しい」の一言で断った時点で、氏の政治生命は断たれた。氏は最終的に、日本で通ずる政治力に欠けていたということになる。

今後氏の復活(政治的台頭)があるとすれば、それは失敗に対する調整、すなわち何らかの形で、氏が米国への忠誠を表し、それが米国に受け入れられなくてはならない。それなしに氏の政治的台頭はまずあり得ない。

世界の歴史が示す通り、このような構造に変化をもたらすものは最終的には体制の破滅しかない。日本のような中途半端な民主政治は、中途半端なまま生き長らえ、その間、長期に渡り民を苦しめ続けることになる。非常に残念なことである。

― 自己の他ブログサイトより転記 ―

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2011年2月27日

支配層に食い潰される日本国

最近メディアで「平成の開国」という言葉をよく耳にする。明治の開国、昭和の開国(戦後の開国)、そして今回TPP開国。忘れてはならないのは開国以前(またはそれと同時)には、その準備段階となる「旧態の終焉」があるということ。

これまでの開国には、「民主化と近代化が進んでいた世界」に対応する江戸封建社会(階級制度)の終焉、批判の多かった日本流の領土拡大政策を取った軍国体制の終焉があった。これらの「終焉」には、支配既得権の排除、消滅により、可能性を持った新体制となることが求められた。

「平成の開国」、そのようなものがあるとすれば、「農業VS工業」以前に、国家の財政を国民が手中にすること、すなわち特別財源の完全なる一般財源化と、霞が関の「支配権」の解体なしには、平成の開国なるものは成立しない。

結局GHQも解体しきれなかったという旧軍国体制の既得権。また戦後のどさくさの中で何でもありだった時代に育ってしまった既得権もある。これらが細分化され、形を変え、民主国としての合理性を欠く「支配既得権」となり、現在それを持たぬ多くの国民、企業らを苦しめている。このままでは支配層に国家が喰い尽くされ、日本は再び貧国へ戻ることになるのだろうか。

本来「開国」とは、必要に迫られて行うもので、支配層自らが改革、消滅してしまうことなど決してない。そして必要に迫られる理由とは、現体制の常識が、開国先となる世界に対して通用しなくなったり、機能しなくなったときである。よって今回も既得権を有する「影の支配層」が、その支配を諦めざるを得ない事象が起こらずしては、後で振り返って「開国」などと呼べるものにはならない。

支配層の強権と民の貧困は、地球上のどこであっても、またいつの時代にあっても、相関関係にあるものだ。

― 自己の他ブログサイトより転記 ―

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2010年12月12日

既得権に屈する政治、犠牲となる国民生活

100年に一度」と言われた2年前の金融危機。前世紀初頭の大恐慌同様、次の大危機が訪れるまで人々の記憶に残り、折に触れては話題になることに違いない。

日本の景気に関してはどうしようもし難い歯がゆさがある。相対的な日本の技術力や経済力が急速に低下しているにもかかわらず、このことに対する現実的な国策がない。バブル・シンドロームとでも言えばいいだろうか、政権は「自分達以外にする者はいない!」という現実を直視できない。


自らの目で社会を見つめ、自らの肌で世情を感じ、自らの足で人生を歩むという実体験が、現在の「政治層」には乏しい。少なくとも国民のそれとは大きな隔たりがある。この八方塞がりの状態が、今後どのようなプロセスを経て健全化してゆくのか、雲を掴むような状況ではないか。


先進諸国から見た日本は、支配層の既得権と不透明な社会の中で、国民生活が犠牲になっているように映る。この部分を先進国並みに改善できない限り、いかなる政策を語ろうとも国民生活は向上し得ない。

2010年11月17日

国民の機会損失と業界のエゴ 7

経済界も同様だ。利益相反著しい親子上場であるが、日本ではこれを合法的に行えるのである。さらにこれにはガバナンスの問題も生じている。50%の株式所有で100%の意思決定権を有する。親会社からの「天下り」もしたい放題。これでは「子」が親を超えることはなく、一般から広く資金を集めることのできる公開企業としては、その資質に大きく欠ける。

日本企業らは上場ブームに乗り、絶妙のタイミング図って子会社を上場させてきた。経済学的には説明のつかない高値を付ける上場子会社が出現する。事情をよく知らない個人投資家は、この
1度限りのショーに魅せられ高値掴み。株価はその半分も愚か、3分の1の水準にすら回復することがない。日本で「株が儲からない」と言われる理由の1つである。結局、市場参加者は減り続け衰退してゆくのである。

上のどれを取っても言えることは、必要なところに必要な規制がなく、逆にあってはならない規制がはびこっている結果だと言える。


「歴史は繰り返す」とよくいうが、私が考えるその象徴的な事象は、ある国家に一定の平和と安定がもたらされたのち、既得権を守ろうとする者らの権力が固定化され、権力者はその権力にすがるがあまり規制をしき、他国との競争に必要な自由を奪い、国家の進化・発展を停滞させてしまう。結局、改革によって力を付けた隣国に攻め落とされ、全てを失う。


これまでも述べてきたが、まさに日本は政治、行政、経済界等々、この既得権と権力の固定化により、国家が衰退期に入り始めていると感じる。昨今の日米同盟の変化や、尖閣諸島、北方領土等の隣国の強気な姿勢は、まさにそれが始まりかけていることの兆候ではないかと危惧する。今回の
APECも史上まれに見る議長国の存在感のなさであった。

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国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 2

国民の機会損失と業界のエゴ 3

国民の機会損失と業界のエゴ 6

球団名に社名が入ると言うような、およそ民主的でない日本の野球界。スポーツよりビジネス、ビジネスより政治色の強い業界でもある。

必要な法整備が遅れる一方、不必要な規制(既得権益の温存等)が象徴的な業界の1つだ。既得権益がはびこり、選手は元より、ファンや関係者も業界を去ってゆく。繁栄は頭打ちとなり、いずれ衰退。日本の球界は「歴史は繰り返す」型衰退劇の典型である。

「球界」で思い起こされるのが日本のメディア。球界同様、他の先進諸国とは異質の存在である。テレビ放送、ラジオ放送、新聞等、同一資本で異なる媒体を牛耳ることが法的に認められているのだ。とても民主国とは思えない。これには政治さえもコントールされる側にある。まさに現代版エンパイアリズムが進行していると言える。


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国民の機会損失と業界のエゴ 1
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国民の機会損失と業界のエゴ 3

国民の機会損失と業界のエゴ 5

世界では以前からあるLCCについても、なんと日本では、スカイマークが就航した98年が最初である。これを見ても理解できるように、業界の大きな抵抗が政治を動かし、国民に機会損失を与えている事は明白である。

過去に全日空が国際線参入を目指した時、日航の猛烈な抵抗にあったと聞く。政治、行政を使ってその参入を阻もうとしたらしい。その全日空も日航とともに、今や航空・空港産業の規制緩和を一部遅らせたいと考える側に立っているわけだ。


本来、大手の
LCC参入は逆に規制するべきである。新規資本の参入を促し、富の一極集中が起こり難い経済構造を創って頂きたいと願うからだ。

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国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 2

国民の機会損失と業界のエゴ 3