2010年7月29日

エコノミック・チャイルドアビュース ― デフォルトへの道

日本の財政状況について、海外では「エコノミック・チャイルドアビュース」という言葉で表現されることがある。

日本語ではチャイルドアビュースは「児童虐待」などと翻訳されるが、英語でのChild Abuseの「Abuse」とは、本来「悪用」や「乱用」、「不正利用」と言ったことを意味する。すなわちチャイルドアビュースとは、「自らの欲求を満たすために(または自らの「うっ憤」を晴らすために)子供を悪用する」という意味である。

そして「エコノミック・チャイルドアビュース」は、「経済的な(に)子供の(を)乱用」、つまり現世代が自らの欲求を満たすため、「子世代(の財産権等)を悪用する」と言う意味になる。これは紛れもなく、世界的に見れば異例なほどに積み上げてしまったこの国の超巨額債務のことである。

日本国民は借金を積み上げてまで、上級公務員に常識では考えられない浪費を長年させて来た。ワンフライト数百万円もするファーストクラスで出張させ、一泊6万円もするホテルを理由する外遊を許して来た。国内では各地のほぼ一等地に格安の住宅まで提供し、運転手付き高級乗用車もある。

しかも日本国民は、自らの代弁者として国会に送り出した政治家が、こうしたことを容認していることすら長年許容して来た(世界的に見て、政治の世界で悪や不具合を早急に取り除かないでいることを「容認」と受け取る)。結果、一千兆円にも達しようという債務を負うに至っている。今に始まったことではなないが、国民はこのツケをどこかで払わなくてはならない。これは当然の責務だ。こうした巨額債務の解消法として、自らの代表らに創らせた案が更なる国債の発行である。この手法を用いれば、子の世代にその責任を着せてしまうことができるのだ。何たる名案!

そんな言葉が本当に聞こえるかのような今の日本の財政状況は、欧米先進国から見れば理解できない極めて無責任なレベルにある。永遠にこのような体質でいられるはずもなく、最終手段である国債の乱発も、現在と同じペースではそう長くは続かない。いずれ行き詰まることは明白だ。

私がその意見をサポートするストラテジスト、アナリスト、経済評論家は、EU問題以降、みな持論の色調を強めている。彼らの主張と、私の外からの目で見た日本経済の先行きについてまとめると、概ね以下のようなことが挙げられる。

  1. 先進諸国の財政懸念から、世界経済の先行きを不安視する傾向が続き、円に対しドル、ユーロ等が今後しばらくの間売られ続ける。
  2. 外部要因及び規制緩和等の遅れから、国内の企業業績に対する悪化懸念が進み、日経平均も下げ続ける。
  3. 質への逃避により債券価格が上昇するも、いずれ公的年金や国内金融機関等の投資機関自身の業績低迷から、日本国債購入枠を減少させ、日本国財政への不信感が強まる。結果、国債価格は急落する。
  4. 政治の混乱、国民生活の水準低下が進み、企業や富裕層の海外移転が加速する。
  5. 産業の空洞化、国内経済の委縮が顕著となり、日本のデフォルトが現実視される。

戦後、日本の政治をほぼ独占して来た政権からの脱却、その政権交代の意義の重さを日本国民は理解していない。このことは今回の参院選に現れている。何事も飽きっぽい日本人らいしい選択と言えばそれまでであるが、戦後やっと本格的に行われた政権交代にたった数カ月で飽きてしまうようでは、この先の政治は混沌とするばかりである。

過去の産物である「既得権益」への回帰を願う層が、未だこの国をジリ貧の道へと導いている。日本国民はこのような体質から本腰を入れて脱却しようと決意できない限り、今後とも欧米先進諸国並みの生活水準に達することは極めて難しい。それどころか、今もなお低水準にある生活レベルすら維持できなくなる恐れもある。狭い家に住み、高額に設定された水道光熱費を支払らわされている。

様々な治療を施しながらも、自力で体力を回復できないとあらば、伸るか反るかの大きな賭けに出てみるのも一つかもしれない。成功すれば完全復活への道、失敗すれば大きな痛みを伴いつつも、根底からの大改革が期待できる。自らでは切除できない膿を抱えてしまったと知ったのなら、“外科医”に頼ることも重要だ。それは少しでも体力の残っているうち、歳を取ってしまわないうち、できるだけ早いほうがいい。

このまま、「デフォルト」、「IMF等の介入による大改革」、「ハードランディングによる壊滅的状況からのやり直し」を避け続けるだけの国家では、「世界」に誇れる日本を取り戻すことができないレベルに来ているのではないだろうか。先進民主国との生活水準差は見て見ぬ振り。発展途上国に対してのみ自らの優位性を比較、自慢する現在の日本の姿は、時に見するに堪え難い。まるで「裸の王様」の行く末を辿っているようである。