2011年4月18日

「緑の党」 エコロジーだけではないその政治的可能性

■真の民衆主権を目指す

ドイツ「緑の党」の躍進が続いている。これは人類に明るい未来をもたらす可能性の始まりかもしれない。

「緑の党」と耳にすると、日本では「エコな党?」ととらえられがちであるが、実は欧州各国の緑の党は、その始まりこそエコがもとになっているものの、現在ではエコロジーはもとより、ヒューマニズムな見地に立った政治理念も彼らの重要な主張である。

西洋では、1.王と信仰が歴史を創った時代に続き、2.産業と金が歴史を創った時代を経て、3.現在、人々が歴史を創る時代への「過渡期」にあると言える。(米国では金の力や利権が世界最大規模である為、欧州に比べ「3」への移行により多くの時間を要する。また、ここでの人々とはもちろん市民、民衆のことであり、代々政界、経済界に身を置いてきた世襲政治家や富豪政治家のことではない。)

対して東洋では、世界の富の中心であった清国が衰退して以降、政治、産業とも発展が大きく遅れ、未だ「2」が支配的。文字通り拝金主義的な社会の真っただ中にある。こうしたことからも、日本を含むアジアにおいては、緑の党の存在価値が増し、次世代政治の気運が高まってゆくのは遥かまだ先のことであると言える。最近のメディアは決して言わないが、日本が米国より20年、欧州より30年遅れと言われる所以である。

■世代を超えた富と権力の集中と固定化

各国の権力者らが、少しでも民にその権力を譲歩すれば、世界はもっと住みやすくなることでしょう。必要以上の権力の集中は、国家に貧困をもたらし、それを固定化させてしまう。さらに戦争や侵略というおぞましい行為も、各国の一握りの権力者にかかっている。

経済面においても、権力者らが、その権力維持を優先する事態が蔓延すれば、必ずや富の再分配機能は損なわれ、国民は所得を減らし生活苦に向う。政治に国民の力が及ばない国家は、革命やクーデターによる国家転覆か、経済破綻の道を進む外ない。国民の目が届かない税収を持つ霞が関の強大な権力を見れば、日本も十分その予備軍と言える。

各国の緑の党が、その政治理念とするのがHumanism Ecology。これにRationality(合理性)を加えることができれば、バランスの良い政治理念が作れるものと私は考えている。環境保護、人道的見地に基づいて政治を行うに留まらず、物理的、生物学的合理性を政策に取り込む。政策立案の際には、科学的、物理的合理性を検証した上で法制化することを政治理念とする。

例えば今回の震災で、被害全容の半分も把握できていないにもかかわらず、まずは増税ありきの議論がされてしまう。物理的検証すらされておらず合理性が伺えない。それどころかまるで大震災を待っていたかのように増税論が出てくる。まるで政官業と国民との間には階級差が存在するかのような無機質さである。

法制を数年おきに見直すことも必要である。時代にそぐわない法律、既得権温存に直結する制度等を時の政治行政が確認し、責任を持たなくてはならない。「不正、失政への責任」を最後まで追及する体制も欠かせない。福島原発事故に際し、東電の責任を解明する以前に、国民負担(電気料金の値上げ)がテーブルに乗ってくる。民主国としてはあり得ないタイミングでの議論だ。

現状のままの制度あっては、今の「世代を超えた富と権力の集中と固定化」は継続、場合によってはそれが「強化」すらされかねない。これでは貧困、テロ撲滅は遠のくばかりであり、革新的な技術進歩も非常に遅いものになる。私にとって欧州の緑の党などは、人類が進むべき道として理にかなっているように見える。