2009年5月30日

「日本の社会不信」 必要なのは民主教育

■民主国における「民主教育」の重要性

いつからか日本社会は協調性を失い、より排他的、保守的な国家になっている。150年前の開国時、そして先の敗戦時、二度のチャンスを得て、それまでの孤立から国際化への路線を歩み始めた。

景気が最高潮に達したバブル崩壊までは、マネーが巡り回り、これが止まるとそれまで目をつぶってきた国の悪行が広く表面化。ここから政府不信、行政不信が止まらなくなり、治安の悪化とともに隣人すら信用できない社会に陥ってしまった。

ここに変化をもたらすのに政治に重要な役割があるが、そのような政治はコンプライアンスに満ちた議員によって行われ、その議員も国民が選ぶ外にない。この「国民」を外から連れて来るわけでもなく、自国民に委ねるしかない。すなわちここで教育、取り分けコンプライアンスと民主性を重視する教育が必要となる。

■自己の権利は相手の権利を守ることから始まる

教師時代(米国ではクラス担任も務めた)、私自身、大いに学んだ点はやはり「民主性」についてであった。「義務と責任の上に自由と権利がある」という民主国の基礎について大いに学んだ。自由の裏には責任があり、権利の裏には義務がある。こうしたことが日本で言われないわけではないが、果たしてどこまで国民の意識レベルに根付いているか疑問。

欧米では、ここから幼稚園・学校教育が始まると言っていいほど教育の基礎となっている。ある子供が行ったルール違反によって、直接的、間接的に「権利」を奪われた他の子供がいることを自覚させなくてはならない。これは民主国のメンバーになるための非常に重要な教育であると言える。

自己の権利を守ることは、他人の権利を守ることから始まる。自己のルール違反は必ずや他人の負担、損失につながるという民主的な社会感が、残念ながら未だ日本には根付いていない。(もちろんここで言う「ルール・法律違反」は、シートベルト着用などの自己の身の安全を守るための法律ではなく、他の交通の妨げとなる違法駐車や、直接ないし間接的に国民の財産を奪うことになる汚職などである。)

■「協調性」に欠ける現代の日本社会

政府・メディアは日本人の「協調性」や「相手を思いやる気持ち」を強調するが、日本人自らが考えているほど、今の日本人は相手を思いやる気持、協調性を持ち合わせていない。あるとすればそれは自分が直接利害関係にある相手に対してだけ表れ、全くの他人に対する思いやりは、他国民のそれを上回るほどではない。

日本の民主化が始まって以来、経済的成長を重んじるがあまり、国家から国民レベルに至るまで、正義を貫く精神が重要視されてこなかった民主国家としての「若さ」もさることながら、西欧と異なり、日本の民主主義は国民自らが勝ち取ったものではない。国(または外国)から与えられた民主主義である。「主義」は主義に留まり、今もなお「民主国」の定義に当てはまらない部分が依然として残る。このような「うわべ民主主義」から早期に脱却し、名実ともに真の民主国家へと進化する必要がある

以下はNHKの番組(サイエンスゼロ)で紹介された調査結果。日本人にとっては大変ショッキングな結果となっている。今後この数値が改善していくことを心より願っている。

■米国と日本で、大規模に行われた人々の「信頼」に対する調査結果

調査1: 『たいていの人は信じられる』との問いに対する「Yes」の割合

      米国47% 日本26%

調査2 『たいていの人は他人の役に立とうとしている』との問いに対する「Yes」の割合

      米国47% 日本19%

同様の調査を世界数十カ国で行った統計についても、日本は最下位に近かったと番組は結んでいる。