2011年7月31日

高品質×高価格=高付加価値?

iPhoneの躍進、任天堂の没落。ビジネス環境の変化は非常に激しい。景気動向だけでは読めないのが今世紀の世界市場。中国、インド等、経済新興国での販売増を頼りに、好業績を当て込んでいた任天堂の投資家達は、その読みを外すことになるのだろうか。まさに変化、環境に適応できない者は勝ち続けられないといったところである(関連記事: WSJ下記URL)。

日本の家電、その「安さ」から80年代までは欧米で順調であった。円が強くなり始めると質に対する価値が疑われ販売不振が顕著化。造船、建築物、半導体、エレクトロニクスは19902000年代、自動車は2000年代後半から2010年代に似た兆候が見られる。鉄道、原発も時間の問題だ。

2011年7月27日

日本国民は企業、メディアの便利なツールか 3

今回の中国高速鉄道の事故は、日本の原発事業とも多くの共通点を見せています。技術的な問題や、隠蔽体質的な事故処理のあり方、メディア報道のあり方、そこに至るまでの営業体制や政府行政との関係など。

つい昨日も報道で、「保安院が地域のシンポジウム等でやらせ質問を要請していたことが発覚」とあります。わざわざ「中立でない」保安院なるものを作り、日本の原子力を推し進めるために、まるで国民の目を欺くことが目的かのような体制を維持してきました。

ただし両国の対応では大きく異なる面も出てきています。中国では、責任者は即解任となり、遺族への賠償についても具体的な対話が既に始まっています。一方、日本では4ヶ月半が過ぎる今も、権力争いに奔走し、未だ賠償も復興も進んでいません。

震災における原発事故処理では、日本は当初、フランスや米国の支援申し出を断っていましたが、最終的に技術支援を受け入れるに至りました。これらは日本にはなかった技術であり、それは事故発生当初から分かっていたはずです。事故処理に関する一連の技術は、原発運営に本来必要不可欠な技術です。日本が「国産技術」とする原発の海外販売も、あまり背伸びすべきではないでしょう。

事故の発生頻度やその被害を及ぼす規模に差はあるにせよ、日本の原子力発電と中国の高速鉄道、この両国がそれぞれの技術を「国産」として海外で売り込む姿勢に、私は共通の違和感を覚えます。

日本国民は非常にテレビ好きな国民性です。「毎日見る」だけに留まらず、見ていなくても点けっ放し(?)にしておくほど、生活に浸透しているようです。それ故、幼いころから無意識のうちにテレビから大きな影響を受け、メディア、大企業等の言葉に踊らされ、彼らの便利なツールになってはいないでしょうか。

クロスオーナーシップと呼ばれる日本式メディアのあり方は、その影響力の大きさから、本来存在することができないものです。戦後の財閥解体理由と同様、影響力の集中と暴走を避けるためにも、この解体、改革を急ぐべきであると思っています。

戦時中、「神風は我々に吹く」と世論統制し、国民を苦しめ続けた政府(及び軍)とメディアです。強者が弱者を道具と見るような体質から、今も抜け切れていないといった感があります。強い影響力をメディアが持つ現在の体制ままでは、日本の将来を変えることができないと感じるところです。

2011年7月26日

日本国民は企業、メディアの便利なツールか 2

日経新聞(Web刊)など、中国の鉄道事故を連日取り上げています。同国の技術の低さ、体制の不備などを連日報道し続けています。

まだ事故について正確なことは何も分かっていない最初の段階から、「開発を急ぎ過ぎた」などとジャッジを加え報道しています。他国の惨事に対する報道と言うよりは、それを皮肉りあざ笑うかのような記事であると感じ始めています。

確かにメディアもビジネス。広告収入のため人目を引き、発行部数、ページビュー数を伸ばさなくてはなりません。また固定客を増やすため、読者受けする内容にする必要があるのかもしれません。

がしかし他国の惨事を皮肉り、あざ笑うような記事が日本では読者受けするのでしょうか。「報道」というよりはむしろ主観論。タブロイド紙やブログといったレベルです。このような場合、社説やコラムなどとして掲載し、報道との区別を明確にすべきです。これができないようでは、報道機関、マスメディアとしての資質に欠けると言えます。

今回の中国高速鉄道の事故は、言われているような批判に値する点が確かに存在すると思います。しかし同じ批判は日本の多くの公共性の高い事業にも当てはまると思います。しかもこちらは年季入りです。

数年前のJR尼崎線の惨事など、日本の鉄道事故においても、その営業体制が問われるものは少なくありません。JALなども、事故にはならなかった運行上のミスや不備など、国への報告義務を怠り、隠蔽していた事実が相次いで発覚しました。さらに技術面においても、鉄道に衝突安全基準が課されていない国は、先進国では日本ぐらいであると考えています。

この件に関して両国は似たような体質でありながら、日本のメディアによる連日の「批判報道」は、外国の事故を伝える報道としてはやや行き過ぎている感があります。

日本国民は企業、メディアの便利なツールか 1

ご存知の通り、日本の鉄道事業も元は国産ではなく、英国製機関車を持ち込むことから始まっています(1872年)。

当初は英国製をそのまま使用して営業。後に英国人技師を招き、大半の部品を英国より輸入して国内で生産、さらに改良型を開発して「国産技術」として国民に披露しています。電車技術はドイツがその始まりのようですが、日本においては米国製を輸入し営業にいたっています。

原発ビジネスはどうでしょうか。元来日本にその技術はなく、やはり米国製を持ち込んだのが最初です。その後GEが東芝などに技術供与し、国内で製造、「国産技術」とうたい、海外販売も手掛けています。

デザインを変え、一部新技術を付加すればそれを国産技術と呼ぶのか、あるいは基礎技術を刷新しない限り「改良型」と呼ぶのかで意見が分かれると思います。前者であれば日本はすべてが国産技術。後者であれば全てが外国技術の改良型ということになります。

我々の身の回りにある工業製品全て、外国の技術が基になっています― 冷蔵庫、洗濯機、エアコン、テレビ、コンピュータ、携帯電話、インターネット、GPS、自動車、鉄道、造船、鉄筋コンクリート建築、エレベーターなど。基礎技術はどれ一つ日本発のものはありません。全て欧米から取り入れた後に改良し、国産技術としています。さらに言えば、日本の政治システム、交通法規さえ欧州から学んだものです。スポーツもしかりです。日本でよく聞く言葉を使えば、「パクリ」ということになります。

「技術で稼ぐ日本」にとって、こうしたことは本来教育レベルで考察し、しっかりと理解していくべきことであると私は考えています。企業、メディアにお膳立てされた教育であっては、グローバル時代に必要な世界観を養うことができません。

自国企業の技術と愛国心は別物

北京上海間の高速鉄道開通以来、「あれは日本の技術だ!」を強調するメディア報道が続いています。同じく技術提供したドイツでは、これほどまで自国技術を強調する報道はされていないと考えています。

私がそう考える理由は、欧米では、日本のように個人が企業に所属し、企業は国家に所属するという感覚が全くないからです。

逆に日本では、日本人(法人個人を問わず)が海外で得る業績は「全日本人の誇り」といった連帯意識がとても強いと感じます。それを伝えるテレビ番組まであるようで(一体何のために?!)、一種のタカリではないかという気もします。

企業の技術はその企業に属し、その企業は株主に属します。外国人CEOを持つ企業もあれば、外国人技術者を雇用して特許を取得している企業もあります。また企業には多くの外国資本が参画しています。よって何をもってそれほどまでに「日本、我が国」を強調するのか、私には理解できません。

欧米では、国際的な企業の技術は「全国民の利するところ」などという感覚はほとんどありません。企業が赤の他人の国民生活を守るわけもなく、自らの利潤を追求することが第一の目的であると国民はよく知っています。

現に当の川崎重工も、中国鉄道省が「独自技術」と表明している事に対し、何ら正式には反論表明していません。彼らにとって先ず大切なのは、「中国というお客様」だからです。なのになぜ、全くの他人であるメディア、国民が、当事者以上に手前ごとのような感情を抱かなくてはならないでしょうか。

冷静に考えれば、川崎重工は工場等の海外移転により日本国民の雇用を奪っても、雇用関係のない日本国民の面倒みてくれることなどありません。これは同社に限らず、日本のほぼ全ての大企業は日本人雇用を減らす一方で、外国人雇用を増加させています。

関連ページ: 投資家

「グッドデザイン賞」その‘ユニーク’な始まり

写真は韓国、斗山建設のデザインチームが手掛けた韓国中央大学の校舎。同国グッドデザイン賞建築部門2010年の受賞作品です。好みは分かれますが、私はなかなかのものであると思っています。

「グッドデザイン賞」は世界各国にありますが、日本はその発症がかなり政治的です。日本企業による欧米製品のデザイン盗用が、知的財産権を巡って外交問題にまで発展したため、日本国民が自前でデザインすることを奨励しようとしたことがその始まりです(下記URL)。

「デザイン盗用、知的財産権侵害、モノマネは日本の特許」など。今ではほとんど聞かれなくなりました。模造品大国中国の出現さまさまといったところです。

以前の欧米では、「日本製品に仕事を奪われる」とジャパンバッシングに躍起でした。最近では中国の脅威が何倍も大きいからでしょうか、欧米ではいつしかバッシングの矛先は中国に向けられています。

JDP 日本デザイン振興会HPより: グッドデザイン賞の歴史 

2011年7月24日

苦笑、日本は女性天国

いつも日本に戻ると直ぐに思い出す感覚がある。行き過ぎた「女性社会」である。

先日も空港に着き、自宅に向かう前に食事でもしようと出発ロビーへ行くと、AUのブースだっただろうか「女性にやさしい携帯電話」といった広告が目に飛び込む。見るとピンクや赤が基調の携帯。日本では未だ「女はピンク」と決まっているらしい。

テレビでも「女性でも簡単に持ち上げることができる新製品」とか、「女性のための○○」などといった言葉が日常的に使われている。非常に気になる。無惨にすら聞こえる。日本人女性はこれを聞いて馬鹿にされた気分にならないのだろうか。欧米ならそれを聞いた女性は誰もが激怒、抗議殺到となる。またそのようなことを誰かが公の場で言えば、その者の社会的生命はその場で断たれるに違いない。

数年前になるが、友人の中国人女性が、「中国人女性も化粧をして職場に行くようになった」と話していたのを思い出す。「職場は仕事をしに行くところであって、男を探しに行くところではない」と言う。これを聞き、やはり中国人と欧米人には共通点が多いと感じる。もちろん欧州では職場に化粧をして行くが、日本人女性とは大分印象が異なる。

言語とはそこの文化の集大成である。文化上、非常に重要となる敬語のあり方や、似た文法など、欧州の言語と中国語には共通点が多い。一方、日本語、韓国語間も共通点が多い。やはり文化的にも似た部分が多く、韓国の社会でも「女性優遇」が散見される。韓国人女性もまた、女性として「優遇」されることに、不快な思いをしている様子はなさそうだ。

もう一つ非常に気になることがある。日本の若手女子アナウンサー、ニュースキャスターの発声、話し方である。あまりにも作られた話し方をする。“女らし過ぎる”話し方をする。プロフェッショナルさが感じられない。はっきりと正確に話すことが彼らの仕事。報道の場で、そこまで自意識過剰になる、またさせる必要はないと思うのだが。やはり日本は女性天国か。

2011年7月23日

衰えない影の支配権力 2

こんな時に増税とは何て愚策。国を商店に置き換えると分かりやすい。店員5名をもつ商店がある。大地震により店舗の半分が崩壊してしまった。どうやら店主は保険に入っていなかったらしい。

こんなとき皆さんが店主であったら、店舗の修理、商売の再開に向け、次のどの道を選択するだろうか、またすべきであろうか。

1. 銀行などからの借入れを起こす。
2. 店員より借り入れ、利子を付けて返済する。
3. あるだけの貯蓄をかき集めて使う。
4. 店員に負担させる(店員の給料から徴収する)。

大震災という有事。余程のワンマン店主でない限り、店員と相談して13のいずれかを民主的に決める。あり得ないのは「4」。これは「店主の救済」を第一に考えたやり方。「店主あっての店員」といった図式である。お考えの通り「復興税」なるものは、「先ずは政府行政を救済する」といったやり方。

日本の支配層は非常にタチが悪い。果実がなくなるまで搾り取って初めて気付くタイプ。いや、そうではない、「自分が取らなくても誰かが取る、だったら先に自分が取ってしまおう」という彼らの本質。日本ではこんなことが合法的にできてしまう。こんな民主国、他にあるだろうか。

自己関連日記: 「トップの影響力

衰えない影の支配権力 1

報道各紙が「首相、政権公約の見通し甘かった(と発言)」などと報じている。本当に「見通しが甘かった」ことが、政策等達成できない最大の理由なのだろうか。

ご存知の通り、国家は権力によって動いている。この権力が国民の総意に反して動けば、その分、国家の民主性は失われる。

フランス革命以降、欧米では「権力」は徐々に民の側に移ってきた。それは十分と言えるレベルではないであろうが、基本的な方向性は正しい。「基本的」としたのは、前世紀より拝金主義が席巻し始め、いわゆる「お上」とは違った別の権力が強さを増しているからである。

日本に目を向けると、「権力」が移る先は民ではなく、主に国と深いつながりのある組織、企業である。ここが欧米とは大きく異なる。外国から「日本株式会社」と呼ばれる実態である。

またメディアも、その最大使命の1つである「権力の監視」が、日本では機能していない。メディアが権力と共存関係にあるからだ。

「影の支配権力」。そんなものが存在すれば、それは民主国の大敵である。民主的に国家運営を進めることができないからだ。これは国民が大統領等、国家元首を選択することのできない日本において、国民生活が先進国並みに豊かになることはないと確信する部分でもある。

2011年7月12日

トップの影響力 3

日本の敗戦、韓国のIMFを考えると、現在、日本のほうがより長い期間、富と権力の固定が進んだ状態にある。大統領制を持たない日本において、民衆の力でこれを根こそぎひっくり返えすことは、まず成し得ない。日本人の政治への無関心さは、これへの諦めなのだろうか。

戦後の恵まれた時代と違い、今の日本には競争相手が存在する。今はもう欧米に甘えることはできず、隣国は後発、共産主義といった、日本の経済発展に「敵なし」などという環境ではない。日本全土が「インキュベーター化」していた時代は遠の昔に去っており、既得権者らがこの変化に適応できないのであれば、「果実」はいずれ枯渇するほかないのである。

民主国の首相としては考えられないほど孤立が進んでいる現在の菅政権。どこまで捨て身で既得権益を壊し、潰すことができるのか。それとも言われている通り、保身の為の政権維持を継続するのか。ここから先の日本を考えるとき、トップの影響力は計り知れない。

トップの影響力 2

解放後の韓国において、初期に成長した企業が財閥化し、メディア、既得権者らと共に政治行政に対する大きな影響力を獲得した。それには植民地時代から続く日本とのパイプも大きく貢献したことである。同国の民主化のあり方や、日本とよく似た国土の発展状況、これまでの工業製品の類似性などを見ると、そのことがよく表れている。現代と三菱の関係などはその代表例であろう。

表向きは民主国でありながら、実態は上のような構図が国家を支配し、国民の機会平等を奪う形で発展に至っている。工業分野において世界トップを争う民主国が、そのような形で発展することなど通常は考えられない。同国もまた、「○○国株式会社」と化しており、これは日本式の近代化による負の影響が、今も続いている表れであると言える。

既得権者による機会平等の妨害、排除は、間接的な富の搾取につながる。しかしながら、永遠に搾取できるものではない。民主国の土台となる国民生活を疲弊させれば、当然搾取する果実はなくなり、結果、実質国家破綻に向かうことになるだけだ。現在の日本でも同様のことが起きているのではないか。

トップの影響力 1

近年、何かと話題の多い韓国。私自身、同国への出張が増えたこともあり、同国について考える機会が増えたと感じている。

正直、あまり魅力的な国ではない。それは何故か。同国の歴史、経済等を考えると、日本の負の影響が見えてくる。またそれは同時に、「トップの決断・影響力」とは非常に重いものであると考えさせられる部分でもある。

例えば日韓併合に至る際、朝鮮国王にはそれを避ける為の選択肢も残されていたはずである。フランスやイギリスに「寄り添う」選択だ。

同じ侵略されるのなら、せめて「アジアの国に」との思いがあったのかもしれない。がしかし、権力闘争に明け暮れていた当時の朝鮮。このトップの判断は結果的に裏目に出たと言える。

国王は、後に世界を敵に戦って敗北し、占領されてしまう側を選択しただけでなく、自国民の尊厳を奪い、独自の国土開発を許さない統治者を結果的に選択してしまったわけだ。このことは解放後の同国の発展にも大きな影響を及ぼしている。

トップの決断はその場に限らず、時を超えてそこに所属するメンバー全員の人生と、場合によってはその子孫の人生にまで影響を及ぼすもの。こうしたことは国家に限らず、企業、家族などあらゆる組織に共通して言えることである。

自己関連日記: 子を見て親を知る

アメリカの影響力

一般的にLiberal層の米国民は、「強いアメリカ、大国としてのアメリカ」を望んでいない。「アメリカは世界の中の一メンバーであるべき」と考えおり、大国的地位を恥じることはあっても、誇ることなど考えらない。

しかしながら保守派の米国民は、一般的にこれとは反対の色調が強く、「大国としてのアメリカ、世界のリーダーとしてのアメリカ」を望む傾向にある。

冷戦後の一人勝ちの状態とは異なり、現在では新興国の台頭、取り分け中国の復活が共和党層の米国民を奮い立たせている。

近い将来、仮に共和党政権が誕生するようなことがあれば、米国はまるで最後の力を振り絞るように、非常に強い右派政治へ向かうのではないかと不安になる。その米国は大国維持への遅れを取りもどそうとするに違いない。

そしてそのとき世界は、振り返って現在が平和の頂点だったと思えるほど、危険な状態に陥っているかもしれない。仮に世界が極限状態に陥ることがあれば、中国は世界平和に向け貢献を図るのではないだろうか。それこそが中国が理想とする大復活シナリオなのだろう。

2011年7月9日

日替りランチ、いや「年替り総理」

外国人の友人らに尋ねられ、いつも答えに戸惑うのが日本の政治。日替わりならぬ、年替わりで交代する国のトップ。最近では月替わり、週替わりで閣僚が替る。

観光で来日する日本の内情をほとんど知らない外国人(友人の友人など)の中には、「年替り総理」が日本の制度であると考えている人もいる。サミット等、首脳会議などで日本だけが毎回新顔。

2011年7月6日

江戸時代型社会への回帰も一つの道

日本の先進的な未来は、いかにエネルギー政策の転換、自己資源の活用ができるかにかかっている。そこに立ちはだかる「既得権」という巨大な壁。それを誰がどのように打ち砕くことができるだろうか。小手先の改革は「終焉」への道を引き延ばし、苦しむ人々をより一層苦しませるだけである。

最終的には両極論に至るほかないのかもしれない。デフォルトによる外からの大手術を受けての再出発か、江戸時代の国内完結型の社会へ回帰か、など。

自己関連日記:

2011年7月5日

変化への不適応 ジリ貧進む日本国

『最も強い者、賢い者が生き残るのではない。最も変化に適応できる者が生き残る。』チャールズ・ダーウィンが使ったとされるフレーズ(諸説多数)。

今の日本は変化に適応できないばかりか、既得権の固定化が弱者を疲弊させる社会へと進んでしまっている。歴史は繰り返すと言うが、既得権の維持、権力闘争の末にあるものは国家衰退である。

現代において武力侵略を受けることなどは考えられないものの、日本は経済力があるだけに、一気に崩壊することなく「ジリ貧」状態が継続することが考えられる。それだけに大転換、大改革は当面起こらず、弱者は長期間苦しむことになるのかもしれない。


2011年7月2日

東電城崩壊によるパラダイムシフト

菅氏が首相の座に執着する意図がはっきりとしないものの、もし日本の電力事業を先進国並みに開放することができれば、それは日本の政治経済史に残る「偉業」となる。

電力や通信のようなインフラ事業は、世界中で最もうまみのあるビジネスの一つ。東電の「殿様商売」が継続不能とあらば、今、100年越しのパラダイムシフトが起ころうとしているかもしれない。

日本の既得権の固定化が大きな国民負担となって国家を疲弊させている。ここでの改革なしに、日本の長所を活かした国家の発展はない。

上客である東電をかばい、半ば国民騙しに加担して来たメディア。現在の菅降ろしは、未だ電力会社をひいきにする既得権者ら(反社会的勢力を含む)の思惑が働いている可能性も否めない。国民はこれに安易に乗せられることなく、厳しい目でプレイヤーを見つめ、賢明な選択をして頂きたいと願うばかりである。