2010年12月12日
よりリスキーなのはカジノか日本市場か
既得権に屈する政治、犠牲となる国民生活
日本の景気に関してはどうしようもし難い歯がゆさがある。相対的な日本の技術力や経済力が急速に低下しているにもかかわらず、このことに対する現実的な国策がない。バブル・シンドロームとでも言えばいいだろうか、政権は「自分達以外にする者はいない!」という現実を直視できない。
自らの目で社会を見つめ、自らの肌で世情を感じ、自らの足で人生を歩むという実体験が、現在の「政治層」には乏しい。少なくとも国民のそれとは大きな隔たりがある。この八方塞がりの状態が、今後どのようなプロセスを経て健全化してゆくのか、雲を掴むような状況ではないか。
先進諸国から見た日本は、支配層の既得権と不透明な社会の中で、国民生活が犠牲になっているように映る。この部分を先進国並みに改善できない限り、いかなる政策を語ろうとも国民生活は向上し得ない。
2010年12月8日
投資家保護 ― 改革されるべきは上場企業経営陣 2
まだ記憶に新しい2009年の年越し。わずか数ヶ月前の金融市場の混乱を理由に、住み込みの期間工らは極短期間の予告だけで住居を追われ、凍える冬空に放り出された。トヨタやキャノンなど、日本を代表する企業らが一斉に契約を打ち切ったのである。
「トヨタ銀行」とも揶揄されるほど、莫大な現金資産を留保し続ける同社。その極々一部を放出してでも社を支えた労働者を保護しようとはしなかった。
リーマンショックに金融危機、その直後のことである。株主に丁寧な説明することできっと「人助け」に対する寛大な理解を得られたに違いない。このとき同社は、同期の株主に対する利益還元をも減らしている。
この年の会期末(2009年3月期)、トヨタ自動車は実に現預金2.4兆円、有価証券5千億、流動資産全体で11.3兆円を計上している。これは前期から現預金が1兆円近く増加し、それを社内に留保してのことである。
その後も同社を筆頭に経済界は政治に圧力をかけ、業界への補助金や為替操作など、巨額の国費支出を勝ち取っている。「利益は社のものだが、労働者保護は国(国民)の責任」という姿勢を示す形となった。
意図的に操作されたデータや事実隠蔽。戦前の軍政府、財閥との関係、それによって犠牲となる国民生活。形こそ異なるものの、残念ながら先進国基準においては民主的に映らないのが日本市場である。
政界、経済界、メディア界に既得権を有するメンバーらに牛耳られ、投資家保護は二の次、三の次となっている。同じく投資家が保護されていないのなら、成長著しい新興国に投資する方がより「安全」という印象を与えてしまうところでもある。
【トヨタ自動車決算資料より】
2008年3月期
現金資産1.6兆円、有価証券5千4百億、全流動資産合計12兆円
2009年3月期
現金資産2.4兆円、有価証券5千億、全流動資産合計11.3兆円
2010年3月期
現金資産1.8兆円、有価証券1.8兆円、全流動資産合計13兆円
― 自己の他ブログサイトより転記 ―
注: 本ブログは自己記録用のため、基本的にコメントへの返信はいたしておりません。お読み頂きありがとうございます。
投資家保護 ― 改革されるべきは上場企業経営陣 1
「株式会社」の最大使命は株主への利益還元。ゆえにこれへの達成の度合いが、投資家にとっての企業価値を計る尺度となる。
「利益は社のものである」だとか、「経営者のものである」などと考えることがあれば、それは立派な背任行為。つまり犯罪である。しかしながら日本の上場企業経営陣にはその認識に欠けるメンバーが多いように見えてしまう。日本が「金融発展途上国」の汚名を奪回するには、「上場企業経営者の意識改革」が最優先事項となる。
これまで日本株が非常に低位にあった理由、それは日本国の将来が危ぶまれているからだけであろうか。日本企業はアジアという大変有望な市場の中であり、同地域内で一早く工業化が進んだ国として、本来、非常に有利な立場と恵まれた環境にある。
しかも世界中の金融機関が、アジア市場の成長に最大の期待を寄せている時代でもある。この中にある日本が外の目に魅力的に映らないはずがない。政府が実力不足であったとしても、日本企業の評価がこれほどまで低位にあることには、経済的合理性がない。ましてや日本政府はきのう今日、その実力を疑われ始めたわけでもない。
日本株低迷の真の理由、それは日本企業固有の問題でもある、投資家を軽視する経営陣の姿勢と、それらを戒める法整備の遅れにあるのではないだろうか。
親子上場による利益相反、無秩序な増資。法整備の遅れをいいことに、日本の上場企業は投資家保護に消極的である。先進国の基準で見れば犯罪を疑われかねないレベルにある。またこうしたことはヘッジファンド等らの「合法的」な市場アビュースをも可能にしてしまう。
世界中どこの誰であれ、投資先経営陣の株主への扱いを第一に問うものである。現在のように経済情勢が不安になれば、それはより一層の厳格化を伴う。しかし日本の投資家は必ずしもそれを重視していないように見える。
2010年11月29日
2010年11月17日
国民の機会損失と業界のエゴ 7
日本企業らは上場ブームに乗り、絶妙のタイミング図って子会社を上場させてきた。経済学的には説明のつかない高値を付ける上場子会社が出現する。事情をよく知らない個人投資家は、この1度限りのショーに魅せられ高値掴み。株価はその半分も愚か、3分の1の水準にすら回復することがない。日本で「株が儲からない」と言われる理由の1つである。結局、市場参加者は減り続け衰退してゆくのである。
上のどれを取っても言えることは、必要なところに必要な規制がなく、逆にあってはならない規制がはびこっている結果だと言える。
「歴史は繰り返す」とよくいうが、私が考えるその象徴的な事象は、ある国家に一定の平和と安定がもたらされたのち、既得権を守ろうとする者らの権力が固定化され、権力者はその権力にすがるがあまり規制をしき、他国との競争に必要な自由を奪い、国家の進化・発展を停滞させてしまう。結局、改革によって力を付けた隣国に攻め落とされ、全てを失う。
これまでも述べてきたが、まさに日本は政治、行政、経済界等々、この既得権と権力の固定化により、国家が衰退期に入り始めていると感じる。昨今の日米同盟の変化や、尖閣諸島、北方領土等の隣国の強気な姿勢は、まさにそれが始まりかけていることの兆候ではないかと危惧する。今回のAPECも史上まれに見る議長国の存在感のなさであった。
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国民の機会損失と業界のエゴ 2
国民の機会損失と業界のエゴ 3
国民の機会損失と業界のエゴ 6
必要な法整備が遅れる一方、不必要な規制(既得権益の温存等)が象徴的な業界の1つだ。既得権益がはびこり、選手は元より、ファンや関係者も業界を去ってゆく。繁栄は頭打ちとなり、いずれ衰退。日本の球界は「歴史は繰り返す」型衰退劇の典型である。
「球界」で思い起こされるのが日本のメディア。球界同様、他の先進諸国とは異質の存在である。テレビ放送、ラジオ放送、新聞等、同一資本で異なる媒体を牛耳ることが法的に認められているのだ。とても民主国とは思えない。これには政治さえもコントールされる側にある。まさに現代版エンパイアリズムが進行していると言える。
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国民の機会損失と業界のエゴ 2
国民の機会損失と業界のエゴ 3
国民の機会損失と業界のエゴ 5
過去に全日空が国際線参入を目指した時、日航の猛烈な抵抗にあったと聞く。政治、行政を使ってその参入を阻もうとしたらしい。その全日空も日航とともに、今や航空・空港産業の規制緩和を一部遅らせたいと考える側に立っているわけだ。
本来、大手のLCC参入は逆に規制するべきである。新規資本の参入を促し、富の一極集中が起こり難い経済構造を創って頂きたいと願うからだ。
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国民の機会損失と業界のエゴ 2
国民の機会損失と業界のエゴ 3
2010年11月7日
中国復興とドル安の定着 3
中国復興とドル安の定着 2
中国復興とドル安の定着 1
2010年10月30日
円の国際通貨化という議論
2010年10月27日
金持ち冷遇策? 2
仮に「金持ち冷遇税制」であれば国民の支持が得られるということであれば、預貯金に課税するのも1つである。私が豪州で生活していた際、不思議に思っていた銀行口座からの出金税(州税)。日本も現預金等に課税するシステムがあれば、経済の血液であるお金が循環し始めるのではないだろうか。日本の場合、入出金の際にではなく、預金そのものに課税してもいいのかもしれない。
仮に年率0.09%で現預金に課税した場合、1万円に対し年わずか9円、10万円で90円。庶民は年にわずか数円から数千円で済み、1億円の現金を持つ富裕層でも9万円程度。1,500兆円の現預金があると言うならば、年1兆円程度の税収が見込めることになる。
また残高に応じ現金資産数百万円以下は非課税、数千万円以上はより高い税率などとすればより現実的だ。当然、海外へ逃げてゆく現金もあるが、そうなれば皆さんが望んでいる円安要因となり、逆に国内に残るのであれば課税を避けるため、株式投資等に向かわざるを得なくなる。
多くの国民が国家経済への直接参加を避けている状態であっては、「成熟経済」など成り立たず、さらなる二極化は避けられない。バブル期終焉までに未来の国家像を描けなかった日本。スウェーデンやフランスのような福祉重視型国家へと移行する体力はもう残っていないであろう。
― 自己の他ブログサイトより転記 ―
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金持ち冷遇策? 1
「証券優遇税制は金持ち優遇」であると日本国民は考えているのであれば、それは義務教育レベルで正しい経済知識が教えられていないことを表していると同時に、国の経済が未だ成熟していないことを示しているのかもしれない。
証券投資とは、その機会を平等に与えられている本来最も庶民的な資産運用ツールの1つである。誰もが何ら制限を受けることなく、自由に小額から資産運用できるのである。特に最近の日本においては、月々わずか1,000円から資産運用も可能となっている。仮に年収が200万円程度であっても、証券税制の優遇措置を享受できることになる。
これは資本主義を取る国で生活する人々の大きな利点であり、その利点をあえて享受しようとしない者が、そうしようとする者にとやかく言うべき種のことではない。
リスクを取ったマネーが経済を巡るからこそ、競争力を持った経済が形成されるわけで、それなしに資源の乏しい(あるいは活用しようとしない)日本において、全国民が平穏に年金生活を送りつつ、安定した行政サービスを受け続けるといった国家像が成立するはずもないである。「自らはリスクを取らずとも、安定的なリターン(年金生活)を得られる」と考えているのであれば、それは非常に危険。これでは日本の義務教育レベルを疑問視せざるを得ない。
2010年10月26日
日本人は本当に米国に何も言えないのか
2010年9月18日
奪われる資産価値― 国内デフレと対外円安
こうした企業らの通貨安政策要求に従い、先日、政府もついに「市場」に手をつけてしまった。自由競争の促進、保護貿易の排除、市場の透明性と個人マネー流入の促進が強く求められている昨今においてである。多大な国民負担によって多少の円安相場をつくり出したところで、彼らがこの先永遠に生産拠点を海外へ移さない、国内の雇用を奪わないという確証はない。法規制なしには、今後も堂々と生産拠点を海外へ移して行くに違いない。
この先も増え続ける日本の貧困層にセカンドチャンスはあるのだろうか。庶民が資産形成を安心して行える平等かつ透明性の高い市場とその維持が強く求められている時代だと言うのに。
これからの日本に必要なのは個人への給付金ではなく、大企業が提供する種の職でもない。収入は少なくとも人生に生き甲斐を感じることのできる「職」を、一人でも多くの人が得ることのできる社会が欲しい。大企業に振り回される国家構造では国民が得ることのできる「幸せ」は少ない。一層のこと社会の大転換もいいかもしれない。
いかなる権力者であっても所詮、人の子。彼らも「人生防衛」に走っているのではないか、サバイバルゲームに参加しているのではないか、これでグローバルな競争に生き残っていけるのかと、今の日本のあり方を見てそう感じてしまう。これまでの「日本株式会社」方式を続けていては、それが未来の日本に幸せを運ぶとはとても思えない。
2010年9月15日
市場操作
政府の為替介入で市場は大混乱だ。為替、株式、債権市場ともに大きく動いている。
個人の現金資産を市場に呼び込もうという昨今、それを後押しする立場にある政府が市場を揺さぶるようでは、日本市場は個人が安心して投資できる環境にないことを宣伝してしまっているようなものである。
世界経済を猛勉強して市場に参加しようともそれが通用しない。日本市場ではギャンブルセンスに長けているほうが有利なのかもしれない。
2008年の金融危機後、先進国としては初の「市場操作国」ということになると思うが、国の経済全体に与える効能を科学的に検証することなしに、一先進国が「ついにやってしまったか」との思いでならない。
この日本政府の「外貨・外国債投資」は、果たして日本経済に恩恵をもたらすものになるであろうか。結果的には損失を積み上げるだけのような気がしてならないのだが。
― 自己の他ブログサイトより転記 ―
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2010年9月12日
「子を見て親を知る」
国民の機会損失と業界のエゴ 4
時間に正確な鉄道運行は、「技術」ではなく「技量」である。つまり「術」を持たずとも、「機会・環境・資本」が整えば成し得るものである。
過密ダイヤと、多量の列車の往来をさばく緻密な日本の鉄道運営ではあるが、これには莫大な周辺準備コストを要する。鉄道事業だけを単体で行って捻出できる範囲の収益では、過密かつ正確なダイヤと、その確固たる安全性を得られるものではない。
これは日本のような市場寡占が認められている国か、まだ政官業が強大な支配力を持ち、日本型の鉄道事業が許され得る新興国でしかその恩恵に授かることはできない。
また米国での自動車利用が大幅に減少することなど考えられず、国土横断型の高速鉄道事業において、過密ダイヤと時間に正確な運行に多額の費用をかける必要性もない。
第2の事由としては、日本の鉄道車両には衝突安全基準が設けられていない。これは致命的である。日立の英国での受注の際に、それが日本の鉄道車両製造企業の「課題」と報道されたことが記憶に新しいところ。数年前のJR西日本の惨劇も、この法整備の遅れと、収益性追及のあまり安全性を確保できなかった結果に他ならない。
これらの事由をクリアできない限り、米国において日本が「総合的な鉄道事業(運営)」を受注することはほぼあり得ない。車両単体の受注においても、原子力発電事業や水道事業同様、現在では不要な排他的規制と、現在に必要な法整備の遅れがアダとなり、国際競争力の低い企業体質ができあがってしまっている。
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国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 2
国民の機会損失と業界のエゴ 3
国民の機会損失と業界のエゴ 3
首都圏には東急、西武、小田急、京急、京成、東武など数多くの鉄道会社が存在する。これらの企業グループは鉄道、建設、建築、土木、不動産、交通(バス・タクシー等)、小売(売店・スーパー・百貨店等)、飲食店、食品製造、テナント賃貸、広告賃貸、観光(ホテル・リゾート施設・ツアー等)と、ありとあらゆる産業をその沿線で支配下におく。
以下全て一企業グループの所有。まるで一企業グループが沿線都市丸ごと、その沿線に暮らす人々の人生そのものを“所有”しているような構図が日本社会には存在する。
1. 鉄道会社は土地を仕入れ、鉄道を敷く
2. 駅を設置しては周辺を宅地開発する
3. そこへ住宅を建築し、販売する
4. 宅地から駅に向かうバスや、終バス以降の帰宅時の駅前タクシーをも寡占的に運行する
5. 駅前を優先的に占拠し、スーパーや百貨店を経営する
6. 食品を製造し、自社スーパーでPB商品として販売する
7. 沿線にホテルやレジャーランド等を建設し経営する
8. ホームの売店経営や駅中テナント収入を得
9. その他、公共の場である駅ホーム、車両内広告等、欧米では禁じられているか、極わかずにしか認められていないことも、これら鉄道事業の完全なる支配下にある。
このような寡占的事業が、一民主国に存在すること自体考えられない。まるでバットマンかスパイダーマン、007などの「世界支配を目論む悪役」を地でいっているかのよう。
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国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 2
国民の機会損失と業界のエゴ 2
日本ではその弊害が既に出ている。政治家がメディアに媚びを売る姿が目立つ。政治家の不祥事であれば連日連夜取り上げる種の報道も、一部の影響力のある芸能人に対してはその不祥事がメディアで取り上げられないか、取り上げられても一回の報道で終わってしまうことがある。
印象的であったのは、みのもんたが、自身の経営する水道メーター会社が長年談合を続けていた事件で、最終的に本人が罪に問われなかったばかりか、テレビニュースの報道も日本における同種の事件としては極めて小さなものであった。しかも氏はレギュラー番組を登板し続けた。
関連ページ: 国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 1
JALは日本の歪んだ政治・経済・社会の縮図。同社の行く末を見れば日本の未来が占えるかもしれない。
航空業界においても日本は規制緩和が遅れた。日航の破綻は「複合悪」の象徴である。その代表的なものが「政・官・既得権者(企業等)」による業界支配。新規参入を拒む「仲良しクラブ型規制」が長期間維持されるあまり、平行する多くの経済活動が阻害されてきた。
本来、産業とは、成長とともにその裾野を広げていくものであるが、日本の場合、新興国並みの排他的規制により、産業そのものが「縦割り社会」を形成している。
キャピタリズムが機能していない日本の新興時代には、当然のことながら自国産業を外から守る何らかの規制は必要であった、ある程度成長を果たし後にもこの体質から抜け出せないでいると、その国家は衰退の道を辿ることになる。体質を変えられないのなら、逆に国家規模をリストラ、縮小し、社会主義的な福祉国家を目指すしかなくなる。
規制(法律)が必要なところに法整備が遅れているのが日本社会の特徴である。特に航空業界、メディア、鉄道業界等では、市場寡占に関する法整備が遅れている。業界が規制緩和を阻止し、今もなお政治がそれを受け入れている日本のあり方は、民主国家を滅ぼす「帝国主義回帰」への予兆であるとさえ私は考えてしまう。
2010年9月5日
「日本株式会社」とその体制維持 国民生活にどうプラスに働くのか、政府は科学的論拠を述べよ
いつも円高になると、慌ててバンドエードを貼るような政策論が出てくる。
「円高は国家を衰退させる」といった論調が、円高になる度に政府やメディアから噴出する。日本国の自立を本気で考えたとき、「円高」は本当に悪と言えるだろうか。日本は「円安」に依存する経済モデルからの脱却を議論すべきである。
円安依存の背景は、輸出企業に依存した経済構造にあり、これは高度成長期型、外需依存型経済である。成長シナリオは「客(外国)」次第。米国や中国、欧州等、外国の発展が自国の成長シナリオの基盤なのである。日本はこれで良いのだろうか。
ビジネス経験を持つ者であれば、誰でも「客次第の経営」など本来したくないものだ。生きるも死ぬも客の消費動向次第のビジネスと言うことであれば、経営者に優れた能力は必要ない。一国の経済がこのような状態では、機動的成長戦略を持つ他国が魅力的に見えて当然である。
日本の自国通貨安政策についてまず思うことは、政・管・メディアと親交の深い輸出企業を「優遇」することが目的化されてはいないだろうか。円高になる度に「円高悪論」、「輸出企業擁護論」が政府、メディアから反射的に起こる。まるで円高でGDPに貢献する企業や個人事業主など存在しないかのようである。
輸出企業は政府、メディアが保護してくれることをいいことに、目先の帳尻だけを持ち出し、「仕入れコスト」の低減にはあまり触れようとしない。彼らが「輸入」に頼っている原材料費は現在超ディスカントとなっており、現物、先物取引を問わず既に息を呑んで買いあさっているはずである。さらに海外企業の買収(または部門買収)等、円安時には非常に困難であるが、円高時には比較的容易である。これは企業を将来大きな成長へ導く可能性を持つ多大な恩恵である。自国通貨高は、“成熟”し人口減少を迎える国家にとっては本来もっとポジティブにとらえられるべきである。
こうしたことなどを詳細に分析することなく、多額の国費を安易に米国債に振り向ける行為は、輸出企業に「補助金」を与えるのとほぼ同意義である。多額の国費を担保にした円売り外国通貨買いが、日本国の発展にどう寄与するのか、政府、メディアは科学的な論拠を示したうえで政策を論ずるべきだ。輸出産業を優遇する傍ら、個人事業主がリスクと取って稼ぎ、税をおさめた後に蓄えた資産価値を、為替操作によって安易に目減りさせるべきでない。するのであればそれを正当化するだけの科学的根拠を国民に示すべきである。
また「為替介入」と言えば聞こえはいいかもしれないが、これは立派な「市場操作」であり、結局は米国債を買い支える行為である。日本国政府は国費を使用して、米国の長期金利低下を後押しているわけだ。他国債を買い支える以前に、自国債を買い支えではどうだろうか。
別の見方をすれば、日本の為替介入は「外為投資」であり、「外国債投資」である。当然、為替変動により損益が発生するわけで、政府が輸出企業の業績保護を目的として、国費をリスクにさらすことにつながる。
現にこれまで数十兆単位で損失が発生しているとのことであるので、その予算で内需喚起する政策が取れていたのなら、もともと介入が必要となる事態に陥らなかったかもしれない。
今後とも米国債の購入を行うのであれば、事前に現在ある損失と、後に発生し得るリスクや損失について公表し、何らかの対処をも用意した上で介入すべきである。自国債を買い支える以前に米国債を買い支えることが、日本国の発展に有益とするのなら、その科学的論拠を事前に示すべきである。
注: 本ブログは自己記録用のため、基本的にコメントへの返信はいたしておりません。お読み頂きありがとうございます。
2010年8月29日
政府、メディアの抵抗 ― 続く円高基調
2010年8月22日
国際競争で勝ち抜くのか、拡大路線からの大転換か ―「人口減」に身を任せる国造り
2010年8月13日
問われる国家の主体性
2010年8月12日
“日流” 今も続く日韓併合の悲劇
2010年8月4日
未来像を描けない日本 ― 参院選を経て
確固たる政権または大統領を持たない日本は、政治的な対立を長期化させ、主体性のない国家になり下がっている。グローバリゼーションの中にあっては、相対的な地位低下は避けらず、より悲惨な状況へと向かうかも知れない。
参院選では新政権が議席数を伸ばせず、元の政権に戻るでもなく、政治はさらに混迷の度を深める結果となった。政治的混乱が固定化すれば、与党が主体的に国家の未来像を描くことができない。対外的には構造的な弱点を露呈し、世界の強国になびく体質が継続されることを意味する。また国内的にも行政や企業に「隙」を与えてしまう。
こうしたことを家庭に置きかえるのなら、一家の大黒柱が妻か夫か決めることができず、家庭の未来像は元より、子の教育方針すらまとめることができないでいるようなものである。
国際感覚豊かな妻は外資系に勤めており、子をインターナショナルスクールに通わせたい。日本の伝統を愛する夫は日本企業に勤めており、子を地域の学校に通わせたい。
どちらにも一理あるわけだが、一方に統一しない限り永遠に意見が対立し、子の将来は「宙ぶらりん」なものにしてしまう。
これを横目で見ている居候の親戚の子は、東大通いで頭が良く、「家族に必要だから」などと、何かと理由を付けては浪費を続けている。夫婦は裕福な家庭で育った世間知らずで、あまり頭のいい方ではない。この親戚の子の言葉を鵜呑みにし、借金をしてまで浪費を手伝っている。気が付くと借金は膨大な額になり、借入先の金融機関に迫られて、幼い子供達とまだ見ぬ孫までを保証人にしてしまったのである。
借金で首が回らなくなり、夫婦喧嘩も絶えず、それが子供達の兄弟喧嘩にまで及んでいる。家業にも専念できず収入は減るばかりで、「夢」を持てないでいる。結果、他の裕福な家庭の下仕事をすることで生計を立てている。
政治の混迷は足下の国民生活をも揺さぶる。未来像は愚か、現在の「国民生活の維持・向上」のためにすら、有効な政策を打つことができない。政策はどれも中途半端、曖昧かつ流動的で、国民は将来不安を募らせている。
さらにグローバリゼーションに翻弄されてアイデンティティを失い、ここでもまた国家の未来像を持つことができないでいる。
過去においては「米国が咳をすれば日本は風邪をひく」と言われていたが、いつしか風邪から「肺炎」になり、その慢性的な肺炎により、現在では基礎体力すら失いつつある。
米国だけでなく、最近では中国の咳も加わっている。中国はまだ経済新興の段階にあるが、既にこれだけの大きな影響力を持っているのである。
未来像を描けず、主体性もない日本の政治は、この先も大国になびくだけのパラサイト国家で行くのだろうか。確かにそれが一番「楽」そうではあるが、長期的視点に立てば、主体的な国家運営を怠る「ツケ」は決して小さくない。
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