2010年12月12日

よりリスキーなのはカジノか日本市場か

日本企業経営陣の目線は未だ高いところにある。いわゆる「上から目線」である。低迷する株式市場、ひとえに「政府の政策が悪いから」だけではない。

最近、ようやく落ち着きを取り戻しつつある株式場の「増資ムード」。しかしそのあり方は異常である。他国のマーケットでも似たケースがあるにしても、日本市場の増資発表後による空売り攻勢や株価暴落などは「市場」の域を超えている。カジノ以上にリスキーだ。外から見れば、投資家らはその「リスクコスト」を勘案せずに投資に至れない。これでは日本市場に外資を取り込めるわけもない。こうしたことが、日本の政治行政の在り方以上に、市場全体に冷や水を浴びせている。

現在超低金利で行える社債発行や銀行借入以前に、株式市場全体が増資ムードに浸っている。事業買収等、事後に何が出てくるかを見極め切れない事案については増資に頼ったほうが賢明かもしれない。何よりも事業の拡大に直結するのだから、このような増資は理にかなっている。

しかしながらそうでないものについては、現在のような低利な状況においては、金融機関から借り入れたほうが遥かに効率的である。経営上の様々な困難を呼び込むことにつながる増資は極力避けるべきである。

増資の際に幹事に支払う手数料は元より、将来に渡って支払い続ける株主への配当や、増えた株主に対する法定案内等のコストなどは永遠に社の負担、すなわち既存株主の負担となる。これは投資家を敬遠させ、市場全体がそのようなムードに包まれると、外資としてはより投資家目線にいる企業が多い市場、あるいは将来性の高い市場に流れざるを得ない。

「一にも二にも増資」、こうした日本市場の古い体質を買えてゆくことも、日本市場を育て上げる上で大変重要である。バブル期以降、それに失敗した結果が、現在の日本市場の低迷を招いている。

技術、経済力の低下だけでなく、「市場」という経済の要を日本はいずれ失うことになると危惧するところである。アジア諸国の新興をうまく活用することは元より、ライバル視する意味においても、「フェアな市場づくり」を上場企業経営者はより真剣に受け止めるべきである。もちろんそれには法整備が先行しなくてはならない。

既得権に屈する政治、犠牲となる国民生活

100年に一度」と言われた2年前の金融危機。前世紀初頭の大恐慌同様、次の大危機が訪れるまで人々の記憶に残り、折に触れては話題になることに違いない。

日本の景気に関してはどうしようもし難い歯がゆさがある。相対的な日本の技術力や経済力が急速に低下しているにもかかわらず、このことに対する現実的な国策がない。バブル・シンドロームとでも言えばいいだろうか、政権は「自分達以外にする者はいない!」という現実を直視できない。


自らの目で社会を見つめ、自らの肌で世情を感じ、自らの足で人生を歩むという実体験が、現在の「政治層」には乏しい。少なくとも国民のそれとは大きな隔たりがある。この八方塞がりの状態が、今後どのようなプロセスを経て健全化してゆくのか、雲を掴むような状況ではないか。


先進諸国から見た日本は、支配層の既得権と不透明な社会の中で、国民生活が犠牲になっているように映る。この部分を先進国並みに改善できない限り、いかなる政策を語ろうとも国民生活は向上し得ない。

2010年12月8日

投資家保護 ― 改革されるべきは上場企業経営陣 2

まだ記憶に新しい2009年の年越し。わずか数ヶ月前の金融市場の混乱を理由に、住み込みの期間工らは極短期間の予告だけで住居を追われ、凍える冬空に放り出された。トヨタやキャノンなど、日本を代表する企業らが一斉に契約を打ち切ったのである。

「トヨタ銀行」とも揶揄されるほど、莫大な現金資産を留保し続ける同社。その極々一部を放出してでも社を支えた労働者を保護しようとはしなかった。

リーマンショックに金融危機、その直後のことである。株主に丁寧な説明することできっと「人助け」に対する寛大な理解を得られたに違いない。このとき同社は、同期の株主に対する利益還元をも減らしている。

この年の会期末(20093月期)、トヨタ自動車は実に現預金2.4兆円、有価証券5千億、流動資産全体で11.3兆円を計上している。これは前期から現預金が1兆円近く増加し、それを社内に留保してのことである。

その後も同社を筆頭に経済界は政治に圧力をかけ、業界への補助金や為替操作など、巨額の国費支出を勝ち取っている。「利益は社のものだが、労働者保護は国(国民)の責任」という姿勢を示す形となった。

意図的に操作されたデータや事実隠蔽。戦前の軍政府、財閥との関係、それによって犠牲となる国民生活。形こそ異なるものの、残念ながら先進国基準においては民主的に映らないのが日本市場である。

政界、経済界、メディア界に既得権を有するメンバーらに牛耳られ、投資家保護は二の次、三の次となっている。同じく投資家が保護されていないのなら、成長著しい新興国に投資する方がより「安全」という印象を与えてしまうところでもある。

【トヨタ自動車決算資料より】

20083月期

現金資産1.6兆円、有価証券54百億、全流動資産合計12兆円

20093月期

現金資産2.4兆円、有価証券5千億、全流動資産合計11.3兆円

20103月期

現金資産1.8兆円、有価証券1.8兆円、全流動資産合計13兆円

― 自己の他ブログサイトより転記 ―

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投資家保護 ― 改革されるべきは上場企業経営陣 1

「株式会社」の最大使命は株主への利益還元。ゆえにこれへの達成の度合いが、投資家にとっての企業価値を計る尺度となる。

「利益は社のものである」だとか、「経営者のものである」などと考えることがあれば、それは立派な背任行為。つまり犯罪である。しかしながら日本の上場企業経営陣にはその認識に欠けるメンバーが多いように見えてしまう。日本が「金融発展途上国」の汚名を奪回するには、「上場企業経営者の意識改革」が最優先事項となる。

これまで日本株が非常に低位にあった理由、それは日本国の将来が危ぶまれているからだけであろうか。日本企業はアジアという大変有望な市場の中であり、同地域内で一早く工業化が進んだ国として、本来、非常に有利な立場と恵まれた環境にある。

しかも世界中の金融機関が、アジア市場の成長に最大の期待を寄せている時代でもある。この中にある日本が外の目に魅力的に映らないはずがない。政府が実力不足であったとしても、日本企業の評価がこれほどまで低位にあることには、経済的合理性がない。ましてや日本政府はきのう今日、その実力を疑われ始めたわけでもない。

日本株低迷の真の理由、それは日本企業固有の問題でもある、投資家を軽視する経営陣の姿勢と、それらを戒める法整備の遅れにあるのではないだろうか。

親子上場による利益相反、無秩序な増資。法整備の遅れをいいことに、日本の上場企業は投資家保護に消極的である。先進国の基準で見れば犯罪を疑われかねないレベルにある。またこうしたことはヘッジファンド等らの「合法的」な市場アビュースをも可能にしてしまう。

世界中どこの誰であれ、投資先経営陣の株主への扱いを第一に問うものである。現在のように経済情勢が不安になれば、それはより一層の厳格化を伴う。しかし日本の投資家は必ずしもそれを重視していないように見える。

2010年11月29日

政局、政局、政局

日本国議会。会期中、一体何日間無駄にすれば気が済むのだろうか。

議員は完全日割り給にし、政局絡みで審議をしなかった場合、それにかかった日数分は当然無給か、ペナルティを課してマイナス給とでもするべきだ。

税金泥棒もいいところではないか。

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2010年11月17日

国民の機会損失と業界のエゴ 7

経済界も同様だ。利益相反著しい親子上場であるが、日本ではこれを合法的に行えるのである。さらにこれにはガバナンスの問題も生じている。50%の株式所有で100%の意思決定権を有する。親会社からの「天下り」もしたい放題。これでは「子」が親を超えることはなく、一般から広く資金を集めることのできる公開企業としては、その資質に大きく欠ける。

日本企業らは上場ブームに乗り、絶妙のタイミング図って子会社を上場させてきた。経済学的には説明のつかない高値を付ける上場子会社が出現する。事情をよく知らない個人投資家は、この
1度限りのショーに魅せられ高値掴み。株価はその半分も愚か、3分の1の水準にすら回復することがない。日本で「株が儲からない」と言われる理由の1つである。結局、市場参加者は減り続け衰退してゆくのである。

上のどれを取っても言えることは、必要なところに必要な規制がなく、逆にあってはならない規制がはびこっている結果だと言える。


「歴史は繰り返す」とよくいうが、私が考えるその象徴的な事象は、ある国家に一定の平和と安定がもたらされたのち、既得権を守ろうとする者らの権力が固定化され、権力者はその権力にすがるがあまり規制をしき、他国との競争に必要な自由を奪い、国家の進化・発展を停滞させてしまう。結局、改革によって力を付けた隣国に攻め落とされ、全てを失う。


これまでも述べてきたが、まさに日本は政治、行政、経済界等々、この既得権と権力の固定化により、国家が衰退期に入り始めていると感じる。昨今の日米同盟の変化や、尖閣諸島、北方領土等の隣国の強気な姿勢は、まさにそれが始まりかけていることの兆候ではないかと危惧する。今回の
APECも史上まれに見る議長国の存在感のなさであった。

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国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 2

国民の機会損失と業界のエゴ 3

国民の機会損失と業界のエゴ 6

球団名に社名が入ると言うような、およそ民主的でない日本の野球界。スポーツよりビジネス、ビジネスより政治色の強い業界でもある。

必要な法整備が遅れる一方、不必要な規制(既得権益の温存等)が象徴的な業界の1つだ。既得権益がはびこり、選手は元より、ファンや関係者も業界を去ってゆく。繁栄は頭打ちとなり、いずれ衰退。日本の球界は「歴史は繰り返す」型衰退劇の典型である。

「球界」で思い起こされるのが日本のメディア。球界同様、他の先進諸国とは異質の存在である。テレビ放送、ラジオ放送、新聞等、同一資本で異なる媒体を牛耳ることが法的に認められているのだ。とても民主国とは思えない。これには政治さえもコントールされる側にある。まさに現代版エンパイアリズムが進行していると言える。


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国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 2

国民の機会損失と業界のエゴ 3

国民の機会損失と業界のエゴ 5

世界では以前からあるLCCについても、なんと日本では、スカイマークが就航した98年が最初である。これを見ても理解できるように、業界の大きな抵抗が政治を動かし、国民に機会損失を与えている事は明白である。

過去に全日空が国際線参入を目指した時、日航の猛烈な抵抗にあったと聞く。政治、行政を使ってその参入を阻もうとしたらしい。その全日空も日航とともに、今や航空・空港産業の規制緩和を一部遅らせたいと考える側に立っているわけだ。


本来、大手の
LCC参入は逆に規制するべきである。新規資本の参入を促し、富の一極集中が起こり難い経済構造を創って頂きたいと願うからだ。

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国民の機会損失と業界のエゴ 1
国民の機会損失と業界のエゴ 2

国民の機会損失と業界のエゴ 3

2010年11月7日

中国復興とドル安の定着 3

米国の低成長が長期化すれば、中国の工場も稼働しなくなると考えられがちであるが、中国は今や名実ともに、人口数十億を抱える「グレーターチャイナ」のリーダー的存在である。米国に物を売らなくとも工場を稼働していける市場を既に掌握するところまで来ている。

19世紀から20世紀初頭にかけて、米国が中国から奪った「世界の市場」としての立場を現在の中国はそれを奪還しつつある。中国企業が米国に物を売れないのであれば、米国企業が中国で稼いでいる分を国内生産させる政策を取ればいい。一党独裁ならではの強みがここにある。日本のようなバブルとその崩壊を懸念する声が根強いが、世界一資本統制が取れている中国ではそのようなことは起こらないであろう。

経済依存、国防依存、ひいては政策依存。日本が米国の第51の州でないことが不思議なくらいである。以前にも同様のことを書いているが、このままジリ貧にデフォルトの道を進むより、いっそうのこと「属国主義」ではなく、実際に一部になってしまったほうが経済的に「安全」なのではないかとさえ考えてしまう(但し米国の一部になってしまったらテロに狙われやすくなる。また身勝手な戦争にも巻き込まれたくない)。

将来的にドル高の定着には、次の3つのことが必要である。
1.     米国が力強い復活を成し遂げ、「再び世界経済をリードする」と世界が考えること。
2.     米ドルが「世界基軸通貨として、将来的にも確固たる地位にある」と世界が認識すること。
3.     米国政府が「強いドル政策」を言動を伴って事実上復活させること。

2については1が前提条件となり、3については12両方が前提となる。これらを満たすことはそう直ぐにはなさそうであり、場合によっては永遠にないかもしれない。それは将来的なドル高の定着がないことを意味する。米国の「強いドル政策」にはもう戻らないのである。

自己関連日記: 心の豊かさと自己防衛

中国復興とドル安の定着 2

米国債売り発言で仮に「ドル元」が下落したとしても、中国にはその損失を確定してまで米国債を売り急ぐ理由は見当たらない。表向きには「我が国に大きな損失が発生している」などと発しつつも、本音は債権者の立場を最大限利用し、米国の経済政策に注文を付けたいに違いない。「物を言う株主」ならぬ、「物を言う債権者」である。中国は最初からこのようなシナリオを描いていたのかもしれない。

中国の経済面での強気な姿勢は、単に通貨の切上げ要求をかわす狙いがあるのかもしれないが、「元」の自由化と米国債の売却を同じタイミングで行いたいと図っているのではないかと考えることがある。中国もそれ相応の含み損を膨らませる事になるが、これらを同時に行うことによりマネーの流れが一気に中国に向かう。名実ともに世界の中心に返り咲くシナリオである。

話しが逸れるが、私は世界史上、最悪最低でありながら成功に至ってしまったテロリズムは、英国の清国に対するアヘンテロ」であると考えている。アヘン漬けにされ、世界の小国らに国家を蝕まれ、その地位を追われたつい100200年ほど前の記憶を、単に「繰り返してならない過去」と片付けるのだろうか。「その意を悪んで、その人を悪まず」とは孔子の言葉であるが、中国は果たしてそのような心構えでいるだろうか

米国の多額の債務は債権国に対する「弱み」と言える。米国人気が継続するであろう時には問題ではないが、パックスアメリカーナの終焉、米国人気が相対的に下がり続ける時代である。今後これは同国の「債権ビジネス」が成り立たなくなることを示唆している。

米ドルの地位低下の度合いを少しでも和らげるためには、米国は先手を打って「通貨バスケット」等、「基軸通貨体質」からの脱却を自ら図る必要がある。放置すれば、通貨バスケットを通り越し、ポンドからドルへ移行した時のようなことが起こるかもしれない。仮にそんなことが起これば、日本が保有する米国債はその価値を半減させ、日本の財政を揺るがす事態に陥ることは必至である。


注:自己の他ブログサイトより転記

中国復興とドル安の定着 1

中国当局が「米国債を売る」と発言したら世界はどうなるだろう。

昨年、中国の米国債保有が日本を抜いたと耳にした時、私はそんな不安を抱いた。さらに数週前、日経で「中国政府内に円高誘導論」という記事を目にした時、国債売りとは逆の発想ではあるが、「ドルより円が先か!」と一瞬ドキッとした。実際にこんなことがあるかどうかは別として、一つ言えることは、日中は互いの産業に大きな影響力を持ちつつも、他方の未来を握っているのは中国側だけではないだろうか。

過去に「ドル円」が70円台を付けたのは、時の総理であった橋本氏の発言がきっかけとなったとされているが、同様のことを中国当局が発言した場合、対ドルで上昇するのはドルペッグ型の中国元はなく、米国第二の債権国である日本国通貨、円ではないだろうか。

ドル円は暴落し、「1ドル50円」なんていうことが本当にあるかもしれない。中米の経済成長に依存するだけの成長シナリオしか持たない今の日本では、実質的なダメージ以上のパニックに陥る可能性が高い。

さらに中国が日本国債を大量保有していたらどうなるだろう。中国要人が「日本国債を売ろうか」などと言ったらどうなるだろうか。円高パニックの最中、一転、円、日本国債は大暴落に向かう。現状の日本ではその不安定さを吸収しきれず、一年を待たずしてデフォルト路線に入ってしまう。

米国債売り発言で、米国がデフォルトに陥ることはあり得ない。しかし日本は違う。軍国体制が終わってわずか65年。非常に若い民主国である。これまでの官僚主導の国家体制を見ていると、こうしたパニックから自力で回復できる程の態勢が整っているのはとても思えない。

最近の中国の強気な言動を見ていると、日本の運命を握り始めたことへの自信の現れではないかと考えてしまう。これは同時に、日米安保の真価を日米両国に問いかけるものでもある。

国家の最重要政策である国防を米国に掌握させ続けたツケが、今の政治的膠着感となって現れている。仕方がない、独立を目論んだ者の行くつくところは既に決まっているからだ。田中角栄、小沢一郎、次に独立を目論む政治家が出て来るのはまた30年後かもしれない。

私は日本の独立を対等の立場でサポートし得る強国は、実は中国しかないのではないかと考えているが、日本国民はその「対等な関係」を望んでいない。これも戦争大国米国のプロパガンダが、皮肉も奏功している証しであり、米国従属主義から抜ける事は当面ないと言える。

2010年10月30日

円の国際通貨化という議論

日本が資産デフレの状態にあるということは、デフレ進行と共に、円を保有しているだけで日本国内での購買力が増大していくことになる。そういう意味においては、円保有への魅力がないわけではない。

しかしながら資産デフレの進む理由を考えれば、やはり日本投資に対する魅力の欠如であり、バブル崩壊以降始まったマネーの流出が、今も続いていると言うことではないだろうか。

2007年初頭頃までは、日本を除く全世界が好景気に沸き、レバレッジを効かせた世界の投資マネーが勢いよく還流していた。このマネーが日本へも再流入し始めたのは2003年頃、主に都心の不動産をターゲットに拡大した。

この時の新興国は、「発展途上」といった色調がまだ強く、その経済力に対して現在程の信認を得られてはいなかった。ゆえに世界の投資マネーは、アジア一の実績を持つ日本への再投資のタイミングを伺っていた状況であったため、相対的な日本への投資意欲は高かったと考えることができる。

対して現在では、中国は元より、ブラジル、タイ、インド、インドネシア、モンゴルなどが、2000年初頭には得られていなかった国際経済的信認を獲得し、さらにその安定感を高め始めている。李政権下の韓国も、欧米に対する存在感を急速に高めてきている。

このような環境下、これらの国々への投資を押し除け、そのマネーの多くを日本へ振り向ける程、現在の日本は魅力的だとは言えないであろう。その魅力なくして、国際通貨としての信認を得ることなどまずできない。

折りしも日本はデフォルトが囁かれ始めているとき。周囲がそのような不安を抱く時、中では一体何が起こっているのか。そう考えると、日本円が信認を得るには、そのハードルは非常に高い。

2010年10月27日

金持ち冷遇策? 2

仮に「金持ち冷遇税制」であれば国民の支持が得られるということであれば、預貯金に課税するのも1つである。私が豪州で生活していた際、不思議に思っていた銀行口座からの出金税(州税)。日本も現預金等に課税するシステムがあれば、経済の血液であるお金が循環し始めるのではないだろうか。日本の場合、入出金の際にではなく、預金そのものに課税してもいいのかもしれない。

仮に年率0.09%で現預金に課税した場合、1万円に対し年わずか9円、10万円で90円。庶民は年にわずか数円から数千円で済み、1億円の現金を持つ富裕層でも9万円程度。1,500兆円の現預金があると言うならば、年1兆円程度の税収が見込めることになる。

また残高に応じ現金資産数百万円以下は非課税、数千万円以上はより高い税率などとすればより現実的だ。当然、海外へ逃げてゆく現金もあるが、そうなれば皆さんが望んでいる円安要因となり、逆に国内に残るのであれば課税を避けるため、株式投資等に向かわざるを得なくなる。

多くの国民が国家経済への直接参加を避けている状態であっては、「成熟経済」など成り立たず、さらなる二極化は避けられない。バブル期終焉までに未来の国家像を描けなかった日本。スウェーデンやフランスのような福祉重視型国家へと移行する体力はもう残っていないであろう。

― 自己の他ブログサイトより転記 ―

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金持ち冷遇策? 1

「証券優遇税制は金持ち優遇」であると日本国民は考えているのであれば、それは義務教育レベルで正しい経済知識が教えられていないことを表していると同時に、国の経済が未だ成熟していないことを示しているのかもしれない。

証券投資とは、その機会を平等に与えられている本来最も庶民的な資産運用ツールの1つである。誰もが何ら制限を受けることなく、自由に小額から資産運用できるのである。特に最近の日本においては、月々わずか1,000円から資産運用も可能となっている。仮に年収が200万円程度であっても、証券税制の優遇措置を享受できることになる。

これは資本主義を取る国で生活する人々の大きな利点であり、その利点をあえて享受しようとしない者が、そうしようとする者にとやかく言うべき種のことではない。

リスクを取ったマネーが経済を巡るからこそ、競争力を持った経済が形成されるわけで、それなしに資源の乏しい(あるいは活用しようとしない)日本において、全国民が平穏に年金生活を送りつつ、安定した行政サービスを受け続けるといった国家像が成立するはずもないである。「自らはリスクを取らずとも、安定的なリターン(年金生活)を得られる」と考えているのであれば、それは非常に危険。これでは日本の義務教育レベルを疑問視せざるを得ない。

2010年10月26日

日本人は本当に米国に何も言えないのか


今回のG20の際に「米国の流動性拡大策は為替操作に当たる」との批判が出たらしい。

米国政府は「強いドルを支持する」と発言したり、「これ以上のドル安は望まない」などと言いつつも、流動性の拡大には躍起だ。間接的ではあるが、報道の通りこれは為替操作に値する。

過去に、中国による尖閣諸島でのガス田開発のことで、中国政府は日本と共同開発すると、口頭ではあるが約束しながらも、結局はその裏で単独開発を続けていた。これに対し日本国内では、政府、国民、メディアなど、国家総出で中国の対応を非難した。中国の行動は、「片手で握手しながら、もう片方の手で殴りかかるようなものだ」としきりに伝えられた。

現在の米国はどうだろう。「強いドルを」などと言う一方で、流動性拡大政策(紙幣増刷=価値の希薄化策)を取っている。さらには他国を為替操作国に認定しようとしている。現在のドル安が日本経済に甚大な被害を与えていると政府やメディアが本当に信じるのなら(私は信じていないが)、こうした米国政府のドル安政策を大いに非難すべきであろう。

ガス田開発問題で中国が行っていることは、危機的状況にある現在の日本経済へ何ら実質的なダメージを与えるものではない。自国の石油会社などに開発許可を求められながらも、それをないがしろにして来た日本政府・国民にとっては、もともと手中にしていないものが第三者に奪われる可能性があるだけだ。当然それはそれで悔しいことではあるが、それによってこれまでの日本経済にダメージを与えるものではない。

対して現在の米国の二枚舌は、日本国政府・メディアが正しいならば、片手で握手しながらもう片方の手で殴りかかられ、日本は「重傷」を負わされていると言わなくてはならない。

日本国政府・国民は、日本経済に直接かつ甚大なダメージを与えているとする米国の政策には極めて寛容である一方、経済的な実被害のない中国のガス田開発に対しては露骨な態度に出る。この差はなんだろうか。まさか白人には何も言えず、アジア人の前ではこれまでの経済力を背景に内弁慶になっているわけではあるまい。

2010年9月18日

奪われる資産価値― 国内デフレと対外円安

「円安政策が急務である」と政府、国民に訴えながら、その横で生産拠点を海外へ移していく製造企業がある。それが大手輸出産業企業であり、「産業の空洞化」を率先して進めている張本人である。

こうした企業らの通貨安政策要求に従い、先日、政府もついに「市場」に手をつけてしまった。自由競争の促進、保護貿易の排除、市場の透明性と個人マネー流入の促進が強く求められている昨今においてである。多大な国民負担によって多少の円安相場をつくり出したところで、彼らがこの先永遠に生産拠点を海外へ移さない、国内の雇用を奪わないという確証はない。法規制なしには、今後も堂々と生産拠点を海外へ移して行くに違いない。

非常にコンペティティブな世界市場において、今後は生産コスト面だけでなく、相対的な技術・生産力の低下や、国内の少子高齢化を補うべく、企業らは生産・開発拠点を必ず海外へ求め行くはずである。

いつも不思議に思うことは、輸出企業のレート設定においてその根拠が示されていないことである。言わば恣意的なレート設定であり、これによって業績予想を公表している。今年度第2四半期以降を見れば、トヨタが90円、ホンダが85円と想定している。実に5円も違う!仮にトヨタが85円で設定してれば現在の株価はもっと低いところにあり、ホンダが90円で設定していれば株価は現在より高い位置にあることが考えられる。作為的である。これら輸出上場企業らは勝手に想定レートを設定し、そのラインを越えれば「業績が下がり雇用が減る」と訴え、政府、株主、社員に対する影響力を行使する。

国内では雇用を減らし続け、逆に海外では膨大な雇用創出を続けているこれらの企業は、「今年度は数千人を雇用」などと公表するも、中身は過半数が外国人を雇用しているケースも少なくない。これが意味するところは、彼らは既に為替レートの動向には十分な適用力がある上、自国への貢献、雇用創出には関心がないということである。

大多数の日本国民は長期間に渡り資産価値を目減りさせて来た。これは諸外国とは極めて対照的だ。国内ではデフレにより資産価値が奪われ、対外的には円高によって資産価値が上昇し始めたと感じたところに政府の為替操作が入り、また対外資産価値減少の方向へ向かわせようとする。

この先も増え続ける日本の貧困層にセカンドチャンスはあるのだろうか。庶民が資産形成を安心して行える平等かつ透明性の高い市場とその維持が強く求められている時代だと言うのに。

これからの日本に必要なのは個人への給付金ではなく、大企業が提供する種の職でもない。収入は少なくとも人生に生き甲斐を感じることのできる「職」を、一人でも多くの人が得ることのできる社会が欲しい。大企業に振り回される国家構造では国民が得ることのできる「幸せ」は少ない。一層のこと社会の大転換もいいかもしれない。

いかなる権力者であっても所詮、人の子。彼らも「人生防衛」に走っているのではないか、サバイバルゲームに参加しているのではないか、これでグローバルな競争に生き残っていけるのかと、今の日本のあり方を見てそう感じてしまう。これまでの「日本株式会社」方式を続けていては、それが未来の日本に幸せを運ぶとはとても思えない。



2010年9月15日

市場操作

政府の為替介入で市場は大混乱だ。為替、株式、債権市場ともに大きく動いている。

個人の現金資産を市場に呼び込もうという昨今、それを後押しする立場にある政府が市場を揺さぶるようでは、日本市場は個人が安心して投資できる環境にないことを宣伝してしまっているようなものである。

世界経済を猛勉強して市場に参加しようともそれが通用しない。日本市場ではギャンブルセンスに長けているほうが有利なのかもしれない。

2008年の金融危機後、先進国としては初の「市場操作国」ということになると思うが、国の経済全体に与える効能を科学的に検証することなしに、一先進国が「ついにやってしまったか」との思いでならない。

この日本政府の「外貨・外国債投資」は、果たして日本経済に恩恵をもたらすものになるであろうか。結果的には損失を積み上げるだけのような気がしてならないのだが。

― 自己の他ブログサイトより転記 ―

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2010年9月12日

「子を見て親を知る」

シンガポールは大変好きな国の一つ。香港と並び、どちらも英国植民地支配の影響による秩序だった街並に好感する。

都市計画もさることながら、その厳格な“都市運営”に感心させられる。これは単にルール違反に対する罰則が厳しいということだけでなく、教育(disciplineに対する市民の心構え)が、いい意味で厳格なのである。

「子を見て親を知る」と言うが、面白いもので植民地支配にも同様のことが言えるのかもしれない。そう、シンガポールや香港の対照的な例が韓国や台湾。

日本と同様、韓国や台湾の街には雑居ビルが乱立し、無秩序なネオンが都市の品格を下げている。日本のようにパチンコや風俗が駅前を占拠することはさすがにないが、歩道上の身勝手な置き看板や放置バイクなどは、日本譲りの「都市運営」である。これらの多くは解放後に日本から入ったものだが、同化政策による日本式の植民地支配なくして、ここまでの影響はなかったであろう。

韓国に行き、ある観光地で入った店で、隣に座っていた日本人観光客の会話が印象的であった。私を見て、日本語を流暢に話すとは思わなかったのかもしれない。韓国の芸能人について(?)の話から、街で見るもの全般についての話しになり、「あれもこれも日本のマネばっかり」といった内容の会話。イギリス人がシンガポールや香港を旅行し、イギリス式の何かを見て、「イギリスの真似ばかり」などとは決して言わないであろう。

韓国人の友人達がみな口を揃えて言うことは、「同じ植民地支配されるのなら、(今となっては)イギリスやフランスにされればよかった」ということ。恐らく日本人でさえ、今の韓国や台湾より、シンガポールや香港のほうが、その街並はより魅力的であると感じているのではないだろうか。

仮に「韓国がフランスに植民支配」されたのなら、結果的には現在の南北分断もなかったわけであり、マカオがポルトガルの街並を有するように、同国もフランスの街並を誇っていたのかもしれない。

隣国にそのような国があったのなら、日本人にとってもより魅力的な週末旅行が楽しめたに違いない。もちろん、日本が江戸時代までの様相を呈していたのならきっと素晴らしく魅力的な国家になっていたと思うのと同様、韓国が李氏朝鮮時代のオリジナルなら更に良かったと思う。

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国民の機会損失と業界のエゴ 4

このような日本の鉄道事業、「世界知らず」な日本の政治家は、昨今の米国鉄道計画における受注合戦に対し、「日本の鉄道技術だけでなく、時間に正確な鉄道運営そのものを輸出して儲ければいい」などと言う。このような発言を可能とするには、発言者は2つの大きな事由を見逃している。

時間に正確な鉄道運行は、「技術」ではなく「技量」である。つまり「術」を持たずとも、「機会・環境・資本」が整えば成し得るものである。


過密ダイヤと、多量の列車の往来をさばく緻密な日本の鉄道運営ではあるが、これには莫大な周辺準備コストを要する。鉄道事業だけを単体で行って捻出できる範囲の収益では、過密かつ正確なダイヤと、その確固たる安全性を得られるものではない。


これは日本のような市場寡占が認められている国か、まだ政官業が強大な支配力を持ち、日本型の鉄道事業が許され得る新興国でしかその恩恵に授かることはできない。


また米国での自動車利用が大幅に減少することなど考えられず、国土横断型の高速鉄道事業において、過密ダイヤと時間に正確な運行に多額の費用をかける必要性もない。


2の事由としては、日本の鉄道車両には衝突安全基準が設けられていない。これは致命的である。日立の英国での受注の際に、それが日本の鉄道車両製造企業の「課題」と報道されたことが記憶に新しいところ。数年前のJR西日本の惨劇も、この法整備の遅れと、収益性追及のあまり安全性を確保できなかった結果に他ならない。


これらの事由をクリアできない限り、米国において日本が「総合的な鉄道事業(運営)」を受注することはほぼあり得ない。車両単体の受注においても、原子力発電事業や水道事業同様、現在では不要な排他的規制と、現在に必要な法整備の遅れがアダとなり、国際競争力の低い企業体質ができあがってしまっている。


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国民の機会損失と業界のエゴ 3

国民の機会損失と業界のエゴ 3

鉄道事業に関しては、「○○電鉄」とは名ばかり。鉄道事業から得る収益は会社総収益の半分にもならない。それ自体は悪い事ではないが、実際の事業のあり方には問題視せざるを得ない。これも欧米では合法的に行うことはできない種のビジネス。

首都圏には東急、西武、小田急、京急、京成、東武など数多くの鉄道会社が存在する。これらの企業グループは鉄道、建設、建築、土木、不動産、交通(バス・タクシー等)、小売(売店・スーパー・百貨店等)、飲食店、食品製造、テナント賃貸、広告賃貸、観光(ホテル・リゾート施設・ツアー等)と、ありとあらゆる産業をその沿線で支配下におく。


以下全て一企業グループの所有。まるで一企業グループが沿線都市丸ごと、その沿線に暮らす人々の人生そのものを“所有”しているような構図が日本社会には存在する。


1.
鉄道会社は土地を仕入れ、鉄道を敷く

2.
駅を設置しては周辺を宅地開発する

3.
そこへ住宅を建築し、販売する

4.
宅地から駅に向かうバスや、終バス以降の帰宅時の駅前タクシーをも寡占的に運行する

5.
駅前を優先的に占拠し、スーパーや百貨店を経営する

6.
食品を製造し、自社スーパーでPB商品として販売する

7.
沿線にホテルやレジャーランド等を建設し経営する

8.
ホームの売店経営や駅中テナント収入を得

9.
その他、公共の場である駅ホーム、車両内広告等、欧米では禁じられているか、極わかずにしか認められていないことも、これら鉄道事業の完全なる支配下にある。

このような寡占的事業が、一民主国に存在すること自体考えられない。まるでバットマンかスパイダーマン、007などの「世界支配を目論む悪役」を地でいっているかのよう。


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国民の機会損失と業界のエゴ 2

つい昨日もテレビ東京ホールディングスなるものが担当相によって認められてしまった。そのようなことを同省令で禁じているにもかかわらずである。表面的には新聞社は含まれていないが、新聞、ラジオ、テレビが同一資本となる日本型のメディア事業は、欧米では合法的に事業を行うことはできない。

日本ではその弊害が既に出ている。政治家がメディアに媚びを売る姿が目立つ。政治家の不祥事であれば連日連夜取り上げる種の報道も、一部の影響力のある芸能人に対してはその不祥事がメディアで取り上げられないか、取り上げられても一回の報道で終わってしまうことがある。 


印象的であったのは、みのもんたが、自身の経営する水道メーター会社が長年談合を続けていた事件で、最終的に本人が罪に問われなかったばかりか、テレビニュースの報道も日本における同種の事件としては極めて小さなものであった。しかも氏はレギュラー番組を登板し続けた。


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国民の機会損失と業界のエゴ 1

JALは日本の歪んだ政治・経済・社会の縮図。同社の行く末を見れば日本の未来が占えるかもしれない。

航空業界においても日本は規制緩和が遅れた。日航の破綻は「複合悪」の象徴である。その代表的なものが「政・官・既得権者(企業等)」による業界支配。新規参入を拒む「仲良しクラブ型規制」が長期間維持されるあまり、平行する多くの経済活動が阻害されてきた。

本来、産業とは、成長とともにその裾野を広げていくものであるが、日本の場合、新興国並みの排他的規制により、産業そのものが「縦割り社会」を形成している。

キャピタリズムが機能していない日本の新興時代には、当然のことながら自国産業を外から守る何らかの規制は必要であった、ある程度成長を果たし後にもこの体質から抜け出せないでいると、その国家は衰退の道を辿ることになる。体質を変えられないのなら、逆に国家規模をリストラ、縮小し、社会主義的な福祉国家を目指すしかなくなる。

規制(法律)が必要なところに法整備が遅れているのが日本社会の特徴である。特に航空業界、メディア、鉄道業界等では、市場寡占に関する法整備が遅れている。業界が規制緩和を阻止し、今もなお政治がそれを受け入れている日本のあり方は、民主国家を滅ぼす「帝国主義回帰」への予兆であるとさえ私は考えてしまう。

2010年9月5日

「日本株式会社」とその体制維持 国民生活にどうプラスに働くのか、政府は科学的論拠を述べよ

いつも円高になると、慌ててバンドエードを貼るような政策論が出てくる。

「円高は国家を衰退させる」といった論調が、円高になる度に政府やメディアから噴出する。日本国の自立を本気で考えたとき、「円高」は本当に悪と言えるだろうか。日本は「円安」に依存する経済モデルからの脱却を議論すべきである。

円安依存の背景は、輸出企業に依存した経済構造にあり、これは高度成長期型、外需依存型経済である。成長シナリオは「客(外国)」次第。米国や中国、欧州等、外国の発展が自国の成長シナリオの基盤なのである。日本はこれで良いのだろうか。

ビジネス経験を持つ者であれば、誰でも「客次第の経営」など本来したくないものだ。生きるも死ぬも客の消費動向次第のビジネスと言うことであれば、経営者に優れた能力は必要ない。一国の経済がこのような状態では、機動的成長戦略を持つ他国が魅力的に見えて当然である。

日本の自国通貨安政策についてまず思うことは、政・管・メディアと親交の深い輸出企業を「優遇」することが目的化されてはいないだろうか。円高になる度に「円高悪論」、「輸出企業擁護論」が政府、メディアから反射的に起こる。まるで円高でGDPに貢献する企業や個人事業主など存在しないかのようである。

輸出企業は政府、メディアが保護してくれることをいいことに、目先の帳尻だけを持ち出し、「仕入れコスト」の低減にはあまり触れようとしない。彼らが「輸入」に頼っている原材料費は現在超ディスカントとなっており、現物、先物取引を問わず既に息を呑んで買いあさっているはずである。さらに海外企業の買収(または部門買収)等、円安時には非常に困難であるが、円高時には比較的容易である。これは企業を将来大きな成長へ導く可能性を持つ多大な恩恵である。自国通貨高は、“成熟”し人口減少を迎える国家にとっては本来もっとポジティブにとらえられるべきである。

こうしたことなどを詳細に分析することなく、多額の国費を安易に米国債に振り向ける行為は、輸出企業に「補助金」を与えるのとほぼ同意義である。多額の国費を担保にした円売り外国通貨買いが、日本国の発展にどう寄与するのか、政府、メディアは科学的な論拠を示したうえで政策を論ずるべきだ。輸出産業を優遇する傍ら、個人事業主がリスクと取って稼ぎ、税をおさめた後に蓄えた資産価値を、為替操作によって安易に目減りさせるべきでない。するのであればそれを正当化するだけの科学的根拠を国民に示すべきである。

また「為替介入」と言えば聞こえはいいかもしれないが、これは立派な「市場操作」であり、結局は米国債を買い支える行為である。日本国政府は国費を使用して、米国の長期金利低下を後押しているわけだ。他国債を買い支える以前に、自国債を買い支えではどうだろうか。

別の見方をすれば、日本の為替介入は「外為投資」であり、「外国債投資」である。当然、為替変動により損益が発生するわけで、政府が輸出企業の業績保護を目的として、国費をリスクにさらすことにつながる。

現にこれまで数十兆単位で損失が発生しているとのことであるので、その予算で内需喚起する政策が取れていたのなら、もともと介入が必要となる事態に陥らなかったかもしれない。

今後とも米国債の購入を行うのであれば、事前に現在ある損失と、後に発生し得るリスクや損失について公表し、何らかの対処をも用意した上で介入すべきである。自国債を買い支える以前に米国債を買い支えることが、日本国の発展に有益とするのなら、その科学的論拠を事前に示すべきである。

注: 本ブログは自己記録用のため、基本的にコメントへの返信はいたしておりません。お読み頂きありがとうございます。

2010年8月29日

政府、メディアの抵抗 ― 続く円高基調


円高基調が続いている。メディアでは為替介入を期待する声が絶えないが、今回も同様の手口でトレンドを変えられるか疑問である。

過去と現在とでは日本円を取り巻く環境が大きく違う。また長期に渡る日本の不況も、円安に頼ろうとする言わば自立心のない政策が根底にあると私は考えている。これは今後変えていかなくてはならない。

まずは過去と現在の環境差についてであるが、過去に長く続いた円安基調は、日本経済の下方トレンドが継続するという見方が支配的であった事によるところが大きかった。この時は円高に向かう度に日本国政府は為替介入を行い、同時に世界一の低金利政策により、円売り圧力を課すことが比較的容易であった。

それにより、政府は元より、国内外の金融機関、投資家が総出で「円売り外貨買い」に走った。これは全国民が直接ないし間接的に円キャリートレードを行っていたのとほぼ同意義でもある。

円キャリートレードは更なる円安を誘発し、政府の思惑が叶った形であるが、これが進む条件としては、円以外の通貨の国で、日本より高い経済成長率を維持することが確実視され、その国の政策金利は高く、差し迫った金融緩和の必要性がないとされる通貨が存在しなくてはならない。しかもその国の情勢は安定していて、クーデター等、国家を揺るがす事象が近未来的には起こり難いとされる国の通貨に限られる。

しかし現在ではそのような国は見当たらなくなってしまった。どの国も政策金利はそう高くない上、ここ12年の経済成長率が低調であるとされている。よって相対的に他通貨の金融緩和がより進むと見られがちだ。また豪州通貨も中国経済の鈍化が言われる中、売り圧力がかかりやすい。逆に政策金利が高く高成長率が見込まれている国々では、今も社会情勢への不安が付きまとう。

2007年の米国住宅バブル崩壊まで、世界は好景気に沸き、日本は長い低成長率と金融緩和状態にあった。この時点を「平時」とするならば、上述の変化により、現在は「相対的」に日本が安全に見えるようになってしまった。

世界が「好景気から低成長」であるのに対し、日本は「低成長から低成長(またはゼロ成長)」とういうことであれば、10が3になるより、2が1または0になるほうが、先の「平時」と比較して安全に見えてしまう。

このような環境下、直接介入による円安効果は極めて限定的となる。短期間の円安が起こるだけで、それは次なる円高マグマの蓄積ともなりかねない。

これまでの「実績」が証明している通り、直接介入は長期的には日本国民に巨額の損失を与える可能性が非常に高い。また金融緩和を一層進め仮に円安が定着したとしても、再び円キャリートレードが広く行われるようになれば、いずれ起こるであろう「巻き戻し」による円高マグマを育てるに過ぎない。まさに現況こそが、過去に日本政府主導で国内外のプレーヤーを巻き込んで行った巨額円売りの巻き返しの結果そのものである。

実はこの失政、計画性を持ったものである可能性がある。百歩譲って円安政策により経済が浮上したとしても、その「直接的」な恩恵を受けるのは輸出企業だけである。

政府、メディアは「国全体に円安による経済効果が広がる」と一方向の考えしか示さないが、輸出企業が潤うことでの二次的な潤いなど、本来誰も欲しくない。商売を営むのであれば、国の経済発展に二次的ではなく直接関わりたいものである。

ビジネスオーナーであれば、「生きるも死ぬも客次第」というビジネスモデルには本来うんざりであろう。同じく日本の経済が輸出産業次第、その輸出産業は外国次第なのである。

そんな国家を次の世代にどのように継承しようと言うのだろうか。これからの子供には、「日本人は米国や中国に助けてもらって生きているのだから、米中の人達には丁寧に接してね」と教育すればいいのだろうか。

政治やメディアは、円安政策が日本の未来にどう貢献するのか、逆に円高では日本の未来にどうマイナスに働くのかを、科学的論拠を伴って国民に説明すべきである。

自動車、家電産業関連の団体は、政治家にとっては献金・集票マシン、放送業界にとってはCM枠を破格の高値で買ってくれるお得様である。このもたれ合いの関係維持には、輸出企業らが「健康」でいてくれなくてはならず、それには円安が一番手っ取り早い。

ここからの円安政策は、過去から現在へと影響力を持つ政官業に関連する既得権者が数年間いい思いをするだけであり、既にある巨額国債の発行同様、将来的に子の世代、孫の世代を苦しめるだけである。

繰り返しになるが、直接介入、一層の金融緩和による円安政策をとっても、それは将来の円高マグマを育て上げ、輸出企業、他国経済に依存する社会を助長し、必ず訪れる将来的な巻き戻しによる円高局面においては、今まで以上の苦しみを繰返すことにつながる。よってこうした悪循環を終わらせる意味においても、今はやすやすと円安を望むべきではない。

それよりもこの円高を機に、輸出産業、他国経済に大きく依存し過ぎない自立的な国家へと日本の経済構造を変えていくべきであろう。

また円高が定着することで日本企業の国際化が進み、日本人の世界観を育成するに大きく寄与する。ひいては名ばかりの日本の国際化からの脱却できるはずである。

幸か不幸か、今の日本の体力では、国家が将来的に巨額損失を抱えかねない直接介入を“断固”として継続することはできないと、市場は既に見透かしている。日本経済が世界経済に対し、相対的に更なる落ち込みを見せない限り、現在の円高圧力は収まるものではない。過去に直接介入を行った時とは、世界の経済情勢が全く異なるのである。

週明け、政府の直接介入や日銀による緩和策により、一時的には円安方向に向かうことがあるかもしれないが、そこは絶好の円売り、株売りの仕込み場となる可能性が高い。


注: 本ブログは自己記録用のため、基本的にコメントへの返信はいたしておりません。お読み頂きありがとうございます。

2010年8月22日

国際競争で勝ち抜くのか、拡大路線からの大転換か ―「人口減」に身を任せる国造り 

<問われる日本人の世界観>  

日本の政治面での問題点を見つめれば、その根源は政治家の実力にあり、ひいては国外に目を向けず長く地元優先主義で来た日本国民の政治的選択基準(選択能力)に行き着く。日本の経済面での問題点を見つめると、多くの場合、「グローバリゼーションに乗り遅れている」といことで説明が付く。様々な理由はあるにせよ、事の本質は上のどちらの面においても日本人の「世界観」が問われている。

日本国政府が国民の海外旅行を認めたのがわずか46年前。日本人の「世界観」を庶民レベルで考えるとせいぜい2030年程の蓄積である。一世代でしかない。それゆえここに来てある種の「拒絶反応」が現れているのかもしれない。

実はつい最近まで、「将来的に日本の国際化が後退することはあり得ない」と考えていた。しかしながら、これまでの政治の混迷や指導力の欠如、国家構造面での複雑な利害関係、人口減少等々を改めて考えると、やはりこれらの改善には膨大な時間を要することに気付く。加速するグローバリゼーションの中にあっては、日本は存在感を増すことは愚か、ついてゆくことすらできない環境にあると言える。

2010年8月13日

問われる国家の主体性



株価等、経済指数の動きにも表れている通り、今や日本の経済は米中次第であり、国防に関しても完全に米国次第である。国家の戦略的基幹インフラについても、過去にインターネット、ブロードバンドの普及では韓国に大きく引けを取った。電子政府、医療情報化、空港、港湾等の整備に至っては、今や同国をモデルとするに至っている。原口総務大臣が電子政府等の視察のため、同国を訪れたことが記憶に新しい。FTAにおいても日本をしり目に、同国は既に先進的な立場にいる。

日本は長年、政治・経済の分野において欧米を模倣することを基礎に成長して来た。このことで、日本は民主資本主義体制にありながらも独立国家としての「主体的・独創的な思考力」が形成されなかった。結果、国政の重要な部分は他国と連動して政策を取るようになり、法整備も他国をモデルとする主体性のない国家へと“成長”してしまった。

これを見ていると「日本には本当に政府が必要なのか」と、冗談ともつかぬことを考えてしまう。この先も主体性を持たない、持てないのであれば、人民元のドルペック制のように「米国政治ペック制」を取ってはいかがか。戦争以外の政策を米国と同調させることを法制化し、それを遂行するための機関としてのみ行政を持つ。

名ばかりの民主主義である今の政府・行政がなくなとも(現代日本の最大の受益者がいなくなっても)、さほど大きな問題にならないであろう。失ってはならない日本の美しい伝統とその維持についても、米国主導が返って効率的かもしれない。

つい十数年前まで、日本人は欧米への憧れに溺れ、日本の伝統を軽視して来た。しかしながら自らの伝統の美しさを思い起こさせたのは皮肉にも欧米人達であった。戦後にわかに始まり、バブル期が終わるまで続いた欧米での日本ブームが、「欧米で人気」であったことで日本に逆輸入され、それが自らの「出身(欧米ではなかった!)」を振り返らせる契機となった。

日本の民主主義は「政府主導」で外から持ち込まれたものである。これは欧米とは大きく異なる。日本の政治がこのままであっては、世界で最初に民主主義の失敗を宣言する国になってしまうかもしれない。主体性のない者は強い者と運命を共にすることはできても、自らの道を切り開くことはできない。

2010年8月12日

“日流” 今も続く日韓併合の悲劇

また日本国総理大臣が「日韓併合」に対し謝罪した。

この日韓併合は李氏朝鮮が「欧州の脅威から身を守るため、自らが申し出たことによるもの」であると、当時の大日本帝国軍が唱えたプロパガンダを未だ信じる日本人がいる。仮にそれが事実であったとしても、朝鮮本土、日本国内において、日本人が彼らに対して行って来た非人道的な扱いは正当化される趣旨のものではない。少なくとも日本以外の民主国においては。

どのような形で日韓併合が始まったのであれ、その最大の悲劇は、歴史的にも「学問の地」であった朝鮮半島が、武士道を美学とする日本に併合され、今もなお続く影響を受けてしまったことである。理由はともあれ、理論派が武力派に負けた象徴的な出来事であろう。

同じく植民地化の歴史を持つ香港やマカオ、その他欧州国に支配を受けた地域や国家は、地域の伝統と欧州的な感覚を調和させた魅力が今も残る。ソウルを訪ねると東京同様、自国文化は切り捨て、欧米に憧れるだけの「無秩序な街づくり」を哀れまざるにはいられない。

乱立する雑居ビルとネオン、電柱と電線、歩道を占拠する置き看板、デリカシーのないラブホテル、風俗営業とその広告などは、紛れもなく現代の日本文化だ。日本各地の駅前に多く存在するパチンコ(賭博店)や派手な風俗業はさすがに見ないが、放送・マスコミ文化などは日本並みに相当低質である。

― 人々は歴史的価値観と誇りを失うと、伝統や名誉を軽視し、拝金主義に走りやすい。拝金主義は政府・行政から始まり国民に至るまで国家全体を無秩序なものにしてしまいがちだ。

韓国の財閥や新興企業がいい例かもしれない。日韓併合による辱めは心の奥底にしまい、先に資本主義化され、欧米から新技術を取り入れることで成功している日本を模倣することが、金儲けにとっては効率的であった。但しこれには大きな代償を伴っていることを韓国人は忘れてはならない。韓国が“日流”を取り入れて成功すればするほど、日本社会の影の部分(マイナス要素)まで取り入れてしまうのである。

日韓併合なしに、または併合先が欧州国であったのなら、解放後もこのような“日流”に影響を受けることはなかったはずである ― 強い反日教育こそされていないが、台湾も同様の爪痕と影響を今も残す。韓国人はさぞかし次のように考えていることであろう。

「あぁ、同じ侵略されるならフランスやイギリスにされていればよかった。どうして日本だったんだ..」と。

2010年8月4日

未来像を描けない日本 ― 参院選を経て

確固たる政権または大統領を持たない日本は、政治的な対立を長期化させ、主体性のない国家になり下がっている。グローバリゼーションの中にあっては、相対的な地位低下は避けらず、より悲惨な状況へと向かうかも知れない。

参院選では新政権が議席数を伸ばせず、元の政権に戻るでもなく、政治はさらに混迷の度を深める結果となった。政治的混乱が固定化すれば、与党が主体的に国家の未来像を描くことができない。対外的には構造的な弱点を露呈し、世界の強国になびく体質が継続されることを意味する。また国内的にも行政や企業に「隙」を与えてしまう。

こうしたことを家庭に置きかえるのなら、一家の大黒柱が妻か夫か決めることができず、家庭の未来像は元より、子の教育方針すらまとめることができないでいるようなものである。

国際感覚豊かな妻は外資系に勤めており、子をインターナショナルスクールに通わせたい。日本の伝統を愛する夫は日本企業に勤めており、子を地域の学校に通わせたい。

どちらにも一理あるわけだが、一方に統一しない限り永遠に意見が対立し、子の将来は「宙ぶらりん」なものにしてしまう。

これを横目で見ている居候の親戚の子は、東大通いで頭が良く、「家族に必要だから」などと、何かと理由を付けては浪費を続けている。夫婦は裕福な家庭で育った世間知らずで、あまり頭のいい方ではない。この親戚の子の言葉を鵜呑みにし、借金をしてまで浪費を手伝っている。気が付くと借金は膨大な額になり、借入先の金融機関に迫られて、幼い子供達とまだ見ぬ孫までを保証人にしてしまったのである。

借金で首が回らなくなり、夫婦喧嘩も絶えず、それが子供達の兄弟喧嘩にまで及んでいる。家業にも専念できず収入は減るばかりで、「夢」を持てないでいる。結果、他の裕福な家庭の下仕事をすることで生計を立てている。

政治の混迷は足下の国民生活をも揺さぶる。未来像は愚か、現在の「国民生活の維持・向上」のためにすら、有効な政策を打つことができない。政策はどれも中途半端、曖昧かつ流動的で、国民は将来不安を募らせている。

さらにグローバリゼーションに翻弄されてアイデンティティを失い、ここでもまた国家の未来像を持つことができないでいる。

過去においては「米国が咳をすれば日本は風邪をひく」と言われていたが、いつしか風邪から「肺炎」になり、その慢性的な肺炎により、現在では基礎体力すら失いつつある。

米国だけでなく、最近では中国の咳も加わっている。中国はまだ経済新興の段階にあるが、既にこれだけの大きな影響力を持っているのである。

未来像を描けず、主体性もない日本の政治は、この先も大国になびくだけのパラサイト国家で行くのだろうか。確かにそれが一番「楽」そうではあるが、長期的視点に立てば、主体的な国家運営を怠る「ツケ」は決して小さくない。

注: 本ブログは自己記録用のため、基本的にコメントへの返信はいたしておりません。お読み頂きありがとうございます。