2011年8月25日

変化に賭ける健全化

<民主化は湧き出るもの、持ち込むものではない>  

日本の民主性を先進民主国レベルにまで引き上げるには、最終的にはもう一度「敗戦」が必要なのかもしれない。もちろん軍事的な敗戦などではなく、経済的な敗北、すなわち国家のディフォルトである。これによる国際機関の介入以外に、法で非民主的に守られている官の既得権が一掃されることはまずあり得ない。

政官業の既得権者らが、自ら進んで既得権を諦めるはずなど決してない。王政の破壊、すなわち既得権の破壊は、過去の日本の民主化の時代のように、恵まれた立場にあった人物らが世界に倣えと外から持ち込んだ程度は、決して定着しないということである。

残された時間が数世代分(2550年)あれば、国民に民主国の本来の在り方を再教育することができる。時間はかかっても、本来これが一番確実かつ意義のある改革手段である。しかしそれを待つ程の体力が残っているだろうか。

<清算は早い方がいい、それも「計画的」が望ましい>  

現在の日本は、デフォルトに向かう企業に例えることができる。多大な借金を抱えながらも、役員は当然のように保護され、その下で社員らはリストラ、減給、サービス残業に苦しんでいる。

重要なのは、その企業がデフォルトに陥るのなら、早ければ早いほど社員には人生をやり直す体力が残されているとである。逆にジリジリと長引かせれば、役員だけが生活水準を保ちつつも、社員らはどんどん疲弊していくことになる。そのとき社員らは疲れ切ってしまい、残された人生をやり直す体力すら残っていない。

これを国レベルで見れば、官民の生活水準格差が広がり、自殺者が増加することに現れる。政官厚遇に対し、増加する国民貧困層等は、デフォルトに向かう企業の役員らと、使い捨てにされる社員を見ているよう。

何れにせよ、時間をかけて国民への民主教育も、デフォルトからの新規一転も、大きな賭けとなることは間違いない。