2011年8月30日

グローバル化時代、最初の覇者は― 米国の侮れない危機管理行動 4/4

仮に米国が金本位制に戻らなくとも、中国が元と金の交換を開始すると発表すればどうなるでしょう。中国はその金の保有量からもより大きなリスクを伴うかもしれませんが、米国債、日本国債の売却と合わせて発表すれば、投資マネーは一気に中国に流入することになります。

中国の経済復興は地球規模の米国支配を終わらせる可能性があります。当然、これを支持するかしないかは個々の自由ですが、一つ言えることは、法的に中国が日本の政策に影響力を及ぼすことはできなくとも、米国にはそれ近いことができる、実際にしているということです。この先も米国が日本の完全独立を認めることなど決してなく、生きるも死ぬも米国次第といった構造があります。

王貴族が国家を形成してきた欧州。皇帝、将軍が多民族をまとめてきたアジア。両地域で暴発国が出現、自民族至上主義という歪んだ妄想に支配され、世界制覇を目論み、世界の和平を乱しに乱しました。その第二次大戦、最終的に多くを勝ち取ったのが第三勢力としての米国でした。混血、実力主義の新大国は、成金主義国へと成長し、世界の常識を大きく変えました。

その米国が今、自国通貨の過剰発券に直面しています。乱発とまでは言えませんが、これは株券同様にダイリューションが進み、ドル通貨の影響力が下がり続けることを意味します。そしてグローバル時代に飲み込まれようとしているのです。

パックスブリタニカに次ぐ、アメリカーナ。次はパックスEUかチャイナか。未だ非現実的な見方かもしれませんが、何があるのか分からないのが今の時代です。色々な可能性と選択肢に備える必要があると考えています。


注: 本ブログは自己記録用のため、基本的にコメントへの返信はいたしておりません。お読み頂きありがとうございます。

逆ニクソンショック― 米国の侮れない危機管理行動 3/4

米国が危機に陥った際、取り得る行動として「逆ニクソンショック」というものを私は考えています。すなわちある日突然、米国が「米ドルと金の交換を再開する」ということです。

私の計算の範囲では、米国が所有する金の価値は、ドル換算で現在のマネタリーベースを遥かに上回っています。つまり米国は金本位制を再開してドルを回収、ドルの信認を高めるに十分な金を持っていると見ています。

ニクソン政権下の管理通貨制への移行の年、1971年末の金価格は41ドル台で推移していますので、現在1,800ドル台であることを考えれば、これでレートを固定した場合、単純に40分の1以下のコストでドルを回収できることになります。

本来、ニクソンショックによって金を大量に保有する義務が解かれれば、米国の金の保有量は減少していてもおかしくありません。しかしその後も米国の金保有量は増え続け、現在もダントツの世界一位を維持しています。よって現在の金価格の高騰とニクソンショックは無関係でないと見ることもできます。

米国の管理通貨制移行当時、以下のような想定があったと考えます。
1.     インフレ、冷戦、世界情勢不安で金の価値は上昇し続ける。

2.     将来的に米国の大国としての影響力が下がり始め、ドルの信認が薄れれば、金価格はさらに高騰する。

3.     米ドルが危機に陥った際には、逆ニクソンショックを起こすことで、低コストでドルが回収できる。

4.     ある程度ドルを回収した後に、再び管理通貨制へ戻すことも可能である。その際に信認は得られないかもしれない。がしかし国家衰退を避ける為にはいかなる手段をも取る、など。

株券乱発、紙幣乱発― 米国の侮れない危機管理行動 2/4

株券に「業績(一株利益)」という裏付けが必要であるのと同様に、通貨も本来、「金」や「銀」などの裏付けが必要です。これら裏付けなく、どちらも許容範囲を超えて発券されれば、あるきっかけをもって崩落へ向かうことでしょう。

ここでの「許容範囲」とは、株式会社の場合、将来の収益力に対する発行済株式総数であり、米国の場合、金の保有量に対するマネタリーベースのことです。

これらの発券行為は、そのどちらの場合も「影響力、統治力を分割譲渡」することを意味し、これに裏付けがなければ(またはあっても乏しければ)、その信認はいずれ失墜し、実力如何を問わず、影響力、統治力を長きに渡り失うことになります。復活すら危ぶまれるかもしれません。

米ドルはパックスアメリカーナに支えられその許容量を増やしてきました。そして金融危機以降、ジリジリとバランスが崩れ始めています。皆がほぼ世界通貨としての機能を認識し、安心して保有して来た通貨です。これへの信認がなくなれば100年に一度は愚か、千年に一度の大混乱になりかねないと考えるところです。

関連ページ: アメリカの影響力

米ドルというババ― 米国の侮れない危機管理行動 1/4

2008年の金融危機を境に、多くの人が米国の大国主義が終わりに近付いている事を感じているのだと思います。これは2000年代初頭からBRICsを見つめてきた人にはより明確に映ったのではないでしょうか。

これからも米ドルはアップダウンを繰り返しながら、またあるとき「米国復活か」などと言われながらも、米ドルという「ババ抜き」は終わることがないのだと感じています。米国はその国力ではなく、紙幣乱発による不信任から衰退に向かうのでしょうか。この流れは止めるには政策の大転換しかなさそうです。

金融危機当初は、邪魔の入らないことを前提に、オバマ氏、ゴア氏タッグによる本格的な脱化石燃料政策などで、米国は世界へのリードを維持するかなどと考えましたが、どうもそのような方向には進まず、足踏みしているうちに事態は悪化へと向かっているように見えます。

2011年8月25日

変化に賭ける健全化

<民主化は湧き出るもの、持ち込むものではない>  

日本の民主性を先進民主国レベルにまで引き上げるには、最終的にはもう一度「敗戦」が必要なのかもしれない。もちろん軍事的な敗戦などではなく、経済的な敗北、すなわち国家のディフォルトである。これによる国際機関の介入以外に、法で非民主的に守られている官の既得権が一掃されることはまずあり得ない。

政官業の既得権者らが、自ら進んで既得権を諦めるはずなど決してない。王政の破壊、すなわち既得権の破壊は、過去の日本の民主化の時代のように、恵まれた立場にあった人物らが世界に倣えと外から持ち込んだ程度は、決して定着しないということである。

残された時間が数世代分(2550年)あれば、国民に民主国の本来の在り方を再教育することができる。時間はかかっても、本来これが一番確実かつ意義のある改革手段である。しかしそれを待つ程の体力が残っているだろうか。

<清算は早い方がいい、それも「計画的」が望ましい>  

現在の日本は、デフォルトに向かう企業に例えることができる。多大な借金を抱えながらも、役員は当然のように保護され、その下で社員らはリストラ、減給、サービス残業に苦しんでいる。

重要なのは、その企業がデフォルトに陥るのなら、早ければ早いほど社員には人生をやり直す体力が残されているとである。逆にジリジリと長引かせれば、役員だけが生活水準を保ちつつも、社員らはどんどん疲弊していくことになる。そのとき社員らは疲れ切ってしまい、残された人生をやり直す体力すら残っていない。

これを国レベルで見れば、官民の生活水準格差が広がり、自殺者が増加することに現れる。政官厚遇に対し、増加する国民貧困層等は、デフォルトに向かう企業の役員らと、使い捨てにされる社員を見ているよう。

何れにせよ、時間をかけて国民への民主教育も、デフォルトからの新規一転も、大きな賭けとなることは間違いない。


2011年8月24日

首都移転― 安全かつ機能的、メモリアルな要素を持つ首都構築

■今こそ「譲り合い」の精神を

これまで私は「遷都するなら京都」と願ってきた。東京圏からは消えてしまいそうな日本の伝統とそのプライド保持を願ってのことである。

震災以降、ポツポツと耳にしていた福島への首都移転。今なら比較的容易に行えるのではないだろうか。

そもそもなぜ首都移転が言われるのか。よく言われるのが東京一極集中の回避や、東京の災害に対する脆弱性など。

首都移転で一番難しいのが、その移転先の選択と決定。これはオールニッポンでもめにもめ、挙句の果てには民主的でない力が働く懸念すらある。だから結局実現しない。しかし現在の日本国民の防災意識と、東北被災地への慈悲をもってすれば、一番の難関は最初から排除されているようなものである。今なら移転の重要性を丁寧に説明することで、国民並びに地権者から寛大な理解を得られずはず。本当の「譲り合い」はこういう時にこそ表れるもの。あとは国民の決意次第。

■機能的かつ安全で魅力的な首都を

米国ワシントンDCや豪州キャンベラのACTなどは、ほぼゼロから首都として都市計画されただけあり、他国の首都と比較して機能的かつ災害に強い、非常に安全性の高い首都となっている。このような首都を創造できる絶好の機会が今の日本にはある。先進国にとっては非常に珍しい機会でもある。そして何よりも、被災地への首都移転は、被災へのメモリアル的要素を未来永劫持ち続ける事ができる。

政府行政運営の大幅なコスト削減にもつながる。現在の永田町、霞が関では何かと費用がかかる。民間から借り上げている不動産等の賃料だけでも天文学的な額に違いない。それら全て必要なくなる。さらに中には移転に同意できず、自ら職を辞する職員も多数出てくるかもしれない。IT時代の今、発展途上期の人員数は必要ない。これも固定費の削減要因となる。また言うまでもなく、移転にあたり国所有の不動産全てを民間へ払い下げ、得た資金を首都移転および被災地の復興費用に充てることである。決して官僚の住宅や特殊法人に与えてはならない。

皇居は宮家の意向次第。国会議事堂は歴史的意味も含め、博物館などとして保存。石原氏が誇示するほどの実力を東京が本当に持っているのなら、首都機能などなくとも十分にその魅力を維持できるはずである。

2011年8月23日

前原氏、本日出馬

前原氏はいつか総理大臣になることでしょう。しかしながら仮に今回当選することがあっても、現状では、それは決して日本国の為にならない。

今の日本の政治に一番重要なものは、政府与党が一丸となって国を動かす体制。政策よりも何よりも、裏があろうが無かろうが、今は日本を動かす「政治力」が何よりも必要である。

仮に前原氏が党トップとなった場合、党内の亀裂はより深まるばかりではないだろうか。現在の氏は、国民(特に若者)の愛国心に訴えることはできても、党をまとめ上げる根回しができていない。これが意味することは内部分裂であり、権力闘争であり、それこそがこれまでの官僚が望む日本の政治体制である。

もし本当に小沢氏が、現在の日本のラストカードとなる実力を有する存在であるのなら、氏は無派閥かつ政治的調整力に長けた馬渕氏を推すことでしょう。


2011年8月22日

ギリシャの離脱は本当にあるのか

過去にヤミ起債や粉飾決算などで揺れた夕張市。同市がディフォルトに陥ったからと言って、日本国からの離脱を望む者がいただろうか。同様にEUの使命を失う事態に陥りかねないギリシャの離脱を、EU市民が容認するとは思えない。

私が以前から思うことは(過去に同様のことをECBへも書いているが)、通貨ユーロを一気にまとめるのではなく、先ずは財政状況に応じていくつかグループに分け、最終的に一つにできればいいのではないかということ。現在の収斂基準である対GDP比財政赤字などを基準にランキングし、通貨を分け、政策金利を調整する。

例えば、対GDP比財政赤字が2.5%未満の国であれば、A格としEuro Aを、2.55%をB格としてEuro Bを、それ以上であればCEuro Cなどとする。

重要なことはどの国もEuro Bから始めることである。開始年月を設定し、それまでの財務状況に応じてランキングを開始する。そしてギリシャ政府のようにEU市民を欺く行為が発覚すれば、関係者には厳罰な処分を持って対応することが必要である。

もちろんそう単純なことではないが、もしEUがこのような何らかの抜本的改革を行わないのであれば、言われているユーロ共同債が必ず必要となる。しかしこれは政治的、国民感情的に実現が難しく、2008年の金融危機を超えるようなショックでも起こらない限り難しいのではないか。

2011年8月21日

ソウルの酒場でチャミスル(眞露)を飲みながら

最近、仕事の都合でソウルへ行く機会が増えた。現地での付き合いも増えた。

先日、日本語がとても流暢なソウル出身の友人二名と、教職を定年退職したという日本の方一名、そして私を入れて4人で飲む機会があった。その日本の方は韓流好きからソウルへ来ていて、既に数ヶ月間滞在しているとのことだった。

ソウルで日本人、韓国人の知人同士が合流して飲むとき、会話が両国間の過去の歴史に触れることはまずない。それより私には全く興味のない、日韓のテレビ番組の話しが度々出てきては盛り上がる。米国、欧州、豪州で生活していた際、酒場ではあり得なかった会話である。ゼロではなかったと思うが、いい大人が目を光らせて、酒場で芸能界の話に盛り上がるようなことはまずなかった。

それはよしとして、今回の4人では珍しく両国間の歴史について話した。欧米文化の色濃い環境で育った私には、竹島/独島問題も、日中間の尖閣諸島問題も、日ロ間の北方領土問題も、正直どうでもいい。ただ今回、日韓間の歴史認識については少し興味が沸いた。

元教員は私に質問する(会話はすべて日本語)。

元教員― 「日韓間で歴史認識が異なる事実についてどう思う?韓国人は日本人がしてきたことに否定的だけど..。一度、中立な立場の人に聞いてみたかった。」

元教員は続ける― 「当時の朝鮮半島で、国内の権力闘争などに明け暮れず、もっと外を見て近代的な軍事力を備えていれば、日韓併合は避けられたんだと思う。外に対して無防備では、結局は外国からの侵略は間逃れない状況だった。」

一瞬、テーブルに沈黙が走る。ソウルの友人ら二人はそっと互いの目を合わせ、下向き加減になる。焼酎のおちょこを手にして会話を変えようとする。

私もどう返答しようかと一瞬戸惑う。友人らがそれ以上話したくないのなら、適当に「きっとそうなんでしょうねぇ」などと口調を合わせ、その会話を終えることもできそう。でも友人に代わり、元教員に伝えたかった。

そこで私― 「ええ、確かに..。多分、私が思うには韓国の方は誰もがそのことを過去の反省と捉えていると思います。国内の権力闘争が外国の侵略を許したと誰もが残念に思っている事だと思います。」

友人らは「そう、そう」とうなずく。 

私は続けて― 「問題は”やり方”なのだと思います。少なくとも当時、20世紀(または19世紀末)のフランスやイギリスであれば、朝鮮人の伝統と尊厳までを奪うことはなかったと思います。」

「併合自体はともかく、やはりその手法は正当化されるものではないと考えています。弱い国は叩かれ、他国に同化されて当然という考えにはあまり賛成できません。しかも20世紀という時代において。」

「歴代総理大臣の謝罪や、日本からの賠償などがなぜ行われたのか。日本軍、政府が行った行為の中で、日本国民に伝えきれていない部分が多少たりともあるのではないでしょうか。」

「その真偽について、これまで両国間で公的な研究がされてこなかったことも残念です。一昔前までは、日本の世界の影響力は韓国とは比べものにならないほど強いものがありましたから、韓国政府は国際機関による公の研究を拒んだかもしれませんが、今は以前より公平な機会が訪れつつあると思っています。」

元教員― 「うん、でも現在の韓国の発展だって、日本の植民地時代に整備されたインフラなどが基礎となったわけですよね。」

私― 「ええ、多分、そのことも韓国国民、誰もがご存知だと思います。」

また「そう、そう」と友人ら。 

私― 「そのような言葉は、例えばある男が少女を拉致、監禁、耐え難い辱めが続き、40年近く経ってその元少女が解放されたとき、その男が、『俺が喰わしてやった飯も、お前が着ているきれいな服も、お前の言葉も知識も全て俺が与えてやってものだろ』と言うに等しいと私は感じます。例え他から見て『稚拙』であっても、彼女は自由な選択肢を持って『自分なりの自分』に育ちたかったのだと思いますよ。」

そこで友人ら二人はまたおちょこを手にとり、「さぁ、飲みましょう」と話しを変える。私は付け加えたかった。その少女は赤の他人ではない。遠い過去、その男の祖先は少女の祖先に、生きていゆく上で非常に多くのことを学んでいるのだと。

多分、日本の多くの方はご存知ないと思うが、現代の韓国人は日本のメディアが強調するほど、対個人への反日感情などはない。あるのは日本政府の歴史認識の扱いに対してであり、これを直接個人に向けるほど反理性的な国民性ではない。それより付き合うほどに、やはり学問の国、哲学の国なのだと感じる部分が多い(教育を受けられなかった世代はまた別かもしれないが)。これは私にとってもやや意外であった。


これまでの人生の中で上のような会話は幾度かあった。韓国や中国は過去の被害を誇張し、日本の謝罪や賠償を国民には伝えないといった風潮があるのは事実であろう。

ただ同時に、あるいはそれ以上に、日本国政府は過去の日本がどこの国で何をしてきたかを、今に伝える義務を果たしていない。そのようなことを外国に行って始めて知ったという日本人の若者は非常に多い。

元総理大臣の小泉氏が、「その意を悪んで、その人を悪まず」などと、加害者の立場から言ってしまうように、そのような意識であってはならないのだと思う。ドイツ政府とは極めて対照的に映る。

最後に、初対面の人との間でよく出てくる会話がある。上の4人で飲んだ晩も例外ではなかった。

元教員― 「それにしても日本語うまいねえ」

私― 「ええ、日本で生まれ育っていますから」

これは私の人生の中で一番よく出てくる会話かもしれない。日本で生まれ育っても、日本人にとって「外国人は外国人」という判断なのだろうか。もう長年言われ続けたことなので慣れてはいるが..。

関連ページ: 子を見て親を知る

加工貿易立国の行方

日本は「加工貿易立国」であると小学校で習った。現代的に言えば「世界の工場」となる。Made-in-Japanが世界のおもちゃ市場を席巻したのはわずか数十年前。バービィドールの模造品を製造するリカちゃん人形の国、レゴの模造品を製造するダイヤブロックの国が、現在では世界の医療機器まで製造している。

まさに日本の発展は世界の奇跡を見るようだ。もちろんこの奇跡はそれより何倍も大きな以前の奇跡、すなわち開国時代の発展が一つの基礎となっている。さらに遡り、巨大地震、津波、火山、台風など、日本は世界有数の災害大国でありながら、木造建築五階建ての塔を千年以上ももたせる技術を持っていた。奇跡と言うよりは、この蓄積の上に培われた当然とも言える実力である。

この実力を世界に見せつけてきた日本が、今なぜ、長期間に渡り低成長に悩み、経済後発国の成長力、技術力に脅かされることに甘んずるのか。これはまさにトップの影響力、政治力の欠如に他ならない。当然、米国依存主義から抜け出せない、抜け出そうとしない政治のあり方も問題である。

政治側は先ずは「円高が悪い」と言う。そしてその対策に「数十兆円」という膨大な国費を注ぎ込んでいる(失っている)。市場を操作しなくてはならないほど、円安でなくてはならないのであれば、それは同時に円安こそが日本の奇跡を創造したということになってしまう。今もなお政府、メディアは「日本人にはハンディとしての円安が必要だ」と言うのであれば、両者が国民の前で誇る日本の先進性はどこへ行くのか。

欧州諸国の発展は通貨安がその最大の理由ではない。彼らは自国通貨高を積極的に利用して、成長に向けた投資を怠ることなく行ってきている。言うまでもなく、通貨高を利用した資源権益の確保や、歴代新興国(日本、韓国、台湾等)、さらに現在の経済新興国にいたる世界各国で足場を固め、通貨高を利用した100年先までの国家成長戦略を描いている。

この先の日本は、世界から尊敬される成熟した民主国を目指すのか、それとも現在の中国のように、「加工貿易後発国」としての立場を貫くのか。政府は世界における日本のポジション、方向性に対し、一貫性のある説明を行う必要がある。また我々も「円高悪」に耳を傾ける以前に、国が権益にしがみつく体質から抜け出す事を訴え続ける必要がある。

2011年8月17日

見え隠れする米国の景気後退

週の終り、ニューヨークは2日続伸で終わりました。これで一旦は底を打ったとみてよいのでしょうか。直近の高値から安値まで、13営業日かけて17%近く下落しました。この17%が大きいとみるのか、または十分でないとみるのかで、この先の投資戦略が大きく分かれます。

昨日でダウは直近安値から約3分の1の戻り。この先、数日かけて半値どころ(11,700ドル付近)まで自律反発し、その水準に25日線が差し掛かる頃、また下値を探る展開になると考えています。バカンスを終え、秋に向けて欧州の債務問題がよりクローズアップされてくると言われていますし、米国市場のアノマリー的な9月要因とも重なります。さらに市場は新興国の景気減速懸念を払拭できていません。

これらを考えますと、やはり今はキャッシュポジションを3050%以上にしておくべきではないかと考えています。仮にダウが直近安値の10,604ドルを終値で割り込むことがあれば、ベア相場入り濃厚と考えます。場合によっては米国景気は「減速」で収まらず、「後退」に向かう入口に立っているとも取れます。

日本のバブル後の処理に比べ、米国は格段に早く手を打ち、QE2に見られるように思い切った金融政策も取ってきています。しかしながらこれが意図した功を奏さなかったのであれば、この先日本的な景気後退とデフレに向かう可能性も否めません。

金融危機後、オバマ氏の大統領就任によって米国はその政策の方向性を変えていくであろうと考えていました。氏の志もさることながら、金融危機直後で世界が強力なリーダーシップを求めていたタイミングでもありましので、それを最大限利用することで大胆な政策を取り、世界経済を再び牽引できるのではないかと期待していました。

「核なき世界」によるノーベル平和賞の受賞までは良かったのですが、私の氏に対する期待が大き過ぎたのか、やはり業界等、各方面での関係者の影響力が勝っていたのか、氏もこれまでのところ「一大統領」の枠を脱していません。

経済も社会も、やはり政治が政治力を発揮することなくして根底を覆すことなどできません。よってありきたりの政策や、現在の米国のFRBに頼り切った経済政策では、この危機は乗り越えることができないと考えるところです。仮に中国の景気減速懸念払拭以前に、米国の景気後退懸念が強まることがあれば、その際はポジションの入替を行いたいと思います。

ご存知の通り日本経済、政治はほぼ完全に米国次第です。最近ではそこに「中国次第」も加わってしまった感があります。復興需要があるとはいえ、大胆な規制緩和(既得権打破による市場開放等)がない限りは、日本はこの先もこの二国に振り回されざるを得ないことでしょう。

金融危機は終わっていないのか― 1年前の日記

昨年の投稿時に多くのアクセスを頂いた投稿。そこで書いたことと実際の市況が、正反対になることを願っていましたが、残念ながら世界経済は未だその路線上にあります。以下「15」、昨年7月の日記より。

1. 先進諸国の財政懸念から、世界経済の先行きを不安視する傾向が続き、円に対しドル、ユーロ等が今後しばらくの間売られ続ける。

2. 外部要因及び規制緩和等の遅れから、国内の企業業績に対する悪化懸念が進み、日経平均も下げ続ける。

3. 質への逃避により債券価格が上昇するも、いずれ公的年金や国内金融機関等、投資機関自身の業績低迷などから、日本国債購入枠を減少させ、日本国財政への不信感が強まる。結果、国債価格は急落する。

4. 政治の混乱、国民生活の水準低下が進み、企業や富裕層の海外移転が加速する。

5. 産業の空洞化、国内経済の委縮が顕著となり、日本のディフォルトが現実視される。

昨年の投稿時、「1」について「ドル円は2011年後半には上昇、90円台を捉える」という意見も多くありましたが、今ではそのようなアナリストの主張はほぼ皆無ではないでしょうか。そして現在は、「2」を経て「3」へ移行中であると考えています。

ただ当時は予想だにしなかった震災の影響が今はあります。ここまで世界の成長見通しが下がり始めると、復興という需要が発生した日本に、再度資金が向かう可能性もあります。これが救いとなり日本経済を浮揚させるのか、日本全体を賄うにはいたらず、欧米、さらに新興国の調整に引きずられるのか、現状では政策次第ということになります。

既得権でがんじがらめの日本社会。環境・エネルギー政策等、世界をリードする産業が日本発で出現し、世界の常識を変えてゆくとは普通ではとても考えられませんが、ひょっとするとそんなこともあるのかもしれません。政界は元より、経済界、メディア、学界からも、「辞める人間が何をしてるんだ」と総袋叩きの菅首相。私は案外そこが強みではないかと考えています。

日本のエネルギー政策を他の先進国並みに国民寄りにするには、権力者が「捨身」で取り組まずして成し得ることはないでしょう。「捨身首相」だからできる大胆な政策もあると、私は淡い期待を抱いています。

関連ページ:

2011年8月6日

中国、国債格下げで米を批判 軍事費の削減要求

半ば恐れていた事態に陥りそうな気配。ただこれは当初から分かっていたこと。まさに中国はこの時を待ちに待っていたに違いない。一国が他国に自国債を保有されることは、ある意味国家の弱みを握られるようなものである。関係が良好なうちはいいが、悪化とまでいかずとも、駆け引きが必要な場面において、債権者は言いたい事を言いはじめる。

米国に対する債権者としての立場は、日本と中国では大きく意味が異なる。ボスに「パーティ券を買わされる」立場と、牛耳るためにパーティ券を買い占めようとする立場、そのような差がある。

一般的に「金を貸した者より、借りた者の方が立場が強い」と言うが、それはその返済される金がどちらにあるかを見るときである。中国は実際、「米国に貸した金」より、自国の立場、優位性向上を優先する。言いかえれば、中国はそのカネを捨てでも、世界の富の中心の座に返り咲くための努力を惜しまないということかもしれない。

私には日本政府・メディアが醸し出す中国軍事的脅威論より、中国の「経済的」覇権論の方がより不気味に映る。

日経Web刊:

関連ページ:

「米国債格下げ」がもたらす世界平和?

ついに米国債格下げ。短期的には金融市場の動揺を誘うかもしれないが、中長期的に見れば世界にとって良いことだと思う。安全を求める資金が他国債へと分散化されれば、その分「ポジショントーク」も分散化される。これまで米国に向いていた関心がもっと多くの国々に広がれば、長期的には世界観が偏ったものから、よりフェアなものへと修正される可能性がある。

本来、完璧でもない国が、世界の中心国的ポジションを欲し、その通貨を世界基軸とし続けることに無理がある。私の周囲の多くのリベラル層の米国人達も、現在の米国が世界をリードすべき大国的立場にあるとは考えていないし、また望んでもいない。

権力によってもたらされる和平は、その権威が及ぶ範囲に留まる。よって米国が世界を「所有」でもしない限り、覇権主義による世界平和など元々なし得ない。世界の関心がより多くの国々に向かい、各国の力配分の平準化が進めば、武力衝突のない真の和平が見えてくると思う。

幸い、中国も大国主義を取っていない― 仮にそう考える人がいるとすれば、それは他国脅威論をこよなく愛す日本国政府・メディアの思惑に洗脳され浸っているからかもしれない。欧米では、中国は強力なライバルではあるが、同国が軍事的脅威などという位置付けではない。

日本国政府がその防衛白書で、自国民に訴えなくてはならないほど、中国の軍事的脅威が事実ならば、日本と同盟関係にある米国は法律上、中国との共同軍事演習など行うことができないであろう。行き過ぎた世論統制は国家を危険な道へと導いていしまう。決して軍国主義に戻ることのないように心がけたい。直近の日本国防衛白書に対する中国政府の反発は半ば正当に映る。

関連ページ:

2011年8月4日

トップ企業の統合劇と愛国心

本日の日立、三菱重工の統合話しは実現するだろうか。もし本当に実現に向かうのなら、日本経済が世界から再評価される大きな契機になるかもしれない。問題は日本企業風土と協調性。実はここが一番難しい。

関連ページ: 「グローバル時代の対応力

現在の日本のトップ企業の規模、実力をもってすれば、複数が力を合わせることで世界一流企業への躍進は十分可能なはずである。しかしそれをせずに、みすみすその座を韓国企業などに与えてしまっている現実がある。

韓国は日本が大国に思えるほど小さな国である。国土は日本の3.8分の1、人口は2.6分の1GDPは円高の影響もあり、45分の1でしかない。しかも日本の統治により、独自の国土開発、経済発展、芸術、学問の追及がつい数十年前まで禁じられていた歴史がある。そんな国の企業らが、世界で日本企業を凌駕している。

またわずか十数年前に、本格的にグローバル経済に仲間入りした共産国中国にすら、日本企業はあっさりとトップ企業の座を譲って来た。

グローバル化時代、すなわち「世界単一経済時代」である。国内のトップ企業が何社あろうが、世界のトップ企業でなければ勝ち残れない時代である。

日本のトップ企業経営者らは、このことを今一度自らの愛国心に問いかけてみるべきだ。保身と家族への相続以前に、全社員や取引先とその家族、ひいては日本国の未来を愛する視点から企業のあり方を論じて頂きたいものである。